そのとき、いつもとは違うモヤモヤを抱いていました。そのきっかけは、前日に入った1本の電話です。夫の職場の部下から自宅にかかってきたその電話は「明日からの出張、ご主人をお借りしますね」という挨拶から始まりました。
会社の重役の一人娘だという若い女性ですが、出張に同行するだけのことでわざわざ妻にそんな連絡をよこすでしょうか——言葉遣いは丁寧でも、その裏にある妙な厚かましさに、どこか引っかかりが残りました。
夫に尋ねると、その部下を「よく働く子だ」と話しました。「名字で呼ぶと役員と同じで紛らわしいから」と言いながら部下の下の名前を口にするさまは、なんだか違和感しかありません。
ただそのときは、深く追わずにいたのです。
突然の別れ
出張に出かけた日のお昼ごろ、いつもの目的地に到着したという連絡がなかったので、私から「無事に着いた?」と連絡を入れました。すると夫から「俺はもうその家には帰らない」と返信が……。
最初は意味が掴めませんでした。夫が冗談を嫌うタイプ。だから全部本当のことだと、少しずつ理解していくしかありません。
会社は辞めた、出張の話は嘘だった、家に離婚届を置いてきた——続く言葉が、じわじわと現実として積み重なっていきました。
「好きな人が出来た。それだけだ」そのひと言は、20年という時間をひとことで終わらせるような響きを持っていました。
なぜ今なのか、どこで何がこうなったのか、何も分からないまま連絡は途絶えたのでした。
残された離婚届
職場から帰宅した私が夫の言っていた場所を探すと、夫のサインだけが入った離婚届がありました。まるで備品を返却するような形で、20年間の夫婦生活が終わらせようとしていたのです。
会社に確認の電話を入れると、夫は出張には行っておらず、本日から無断欠勤していると教えられました。そして、あの部下も今日から出社していないことがわかりました。
「出張」として持ち出したキャリーケースも、私が丁寧に詰めた荷物も、全部そのための準備だったのです。
しばらくは何も手につきませんでした。怒りよりも先に虚しい気持ちでいっぱいになりましたが、ただ一つ、はっきりしていたことがありました——こんな形で終わりにしたくない、ということです。
私は離婚届にサインをする気にはなれませんでした。
浮気相手の両親との約束
夫が姿を消してほどなくして、夫の同僚から連絡がありました。部下の両親、つまり夫の会社の重役が娘の居場所を探しているとのことで「何か知らないか?」という用件です。
同僚と話すうちに、現在の状況が見えてきました。部下の両親は今回の件を認めていないよう。一人娘が既婚者のいち社員と駆け落ちしているという現実に、怒りと焦りを隠せない様子……。
直接連絡をとり、私がまだ離婚届を出していないと知ると「まだ出さないでくれ」と懇願しました。そうすることで、2人が法的に結婚できない状況にしたいとのこと。頭を下げられ、私は当面離婚届を出さないことを約束しました。
不倫カップルに伝えたこと
2週間後、部下の両親は調査会社の力を借りて夫たちの滞在先を突き止めました。情報を共有された私は、直接話し合いに向かったのです。
突然現れた私に固まる夫たち。言い合いをする中で「離婚届はまだ出していない」と告げると、夫は動揺した様子を見せました。すぐにでも結婚するつもりでいたのでしょう。
さらに夫の浮気相手の女性には「籍も入れられない年上の無職男性を、これから先もあなたが支え続けることになるのよ」と現実を突きつけます。しかし彼らの意思は変わらないよう。その日のところは帰ることにしました。
しかし数日後、浮気相手の気持ちが変わったよう。何不自由なく育ってきた彼女にとって、先の見えない生活は想像以上に重くのしかかったのかもしれません。
「家に帰る」と言い出したと、夫が怒って連絡をよこしたのです。「お前が離婚してくれないせいだ。どうしてくれるんだ」と怒鳴る夫に、私は落ち着いて答えました。
「そう簡単に離婚するわけないでしょ? 20年も連れ添ったんだから」夫は怒って電話を切りました。
しかしそのすぐ後、夫も「俺も家に帰る」と言い出しました。ひとりになるのは嫌なのでしょう……。しかし私は電話口で冷たく言い放ちました。「もう結構です! 私たちも終わりで!」
私は、弁護士を通じてきっちりと離婚の手続きを進める決意を固めていました。
夫は「離婚届は出さないと言っていたのに!」と戸惑いましたが、私の気持ちはすでに決まっていました。不倫相手との関係が終わったなら、こんな男との縁を、これ以上引き延ばす理由はありません。
その後
弁護士を交えて慰謝料と財産分与についての話し合いが進み、最終的に持ち家は私が引き取る形で離婚が成立しました。長く住み慣れた家に、今は一人で暮らしています。
浮気相手は両親のもとに戻りましたが、今回の件で慰謝料を支払い、職も失うことになったと聞きました。夫も同様に慰謝料と財産分与によって経済的な基盤を失い、仕事を探しているといいます。2人のその後は知りません。
今の私は、誰かを起こさなくていい。荷造りをしなくていい。先回りして何かを用意しなくていい。そんなことが、想像より穏やかに感じられます。20年間、当たり前にやってきたことの重さを、なくなって初めて実感した気がしました。
◇ ◇ ◇
不倫というものは、生活感のない世界で燃え上がっているだけの「一時の熱病」に過ぎないのでしょう。現実を突きつけられた瞬間に崩壊します。
非日常の刺激に溺れた二人が共倒れしていく様は、自業自得としか言えません。人を不幸にして成り立つ関係に、幸せな結末などあり得ないのかもしれませんね。
【取材時期:2026年4月】
※本記事は、実際の体験談をもとに作成しています。取材対象者の個人が特定されないよう固有名詞などに変更を加えながら構成しています。