至福のランチを奪う「自称」本場流
同じプロジェクトを担当することになったのをきっかけに、先輩は昼休みになると私のテーブルにやってきて、海外生活の思い出話をよく聞かせてくれるようになりました。「本場の味が楽しめる隠れ家的なイタリアンがあってね。そこに行くと、あの頃を思い出すんだよね」とスマートフォンでお店の写真を見せてくれたりして、最初は私も息抜きのつもりで楽しく耳を傾けていたのです。
しかし、先輩の態度はだんだんとエスカレートしていきました。最初は「向こうではこうだったんだよね」という単なる思い出話だったはずが、次第に社食での私の「食べ方」にまで細かく口を出すようになってきたのです。そして気づけば、「本場じゃあり得ないから、その食べ方は直したら?」という直接的な指摘へと変わっていきました。
「向こうのトラットリア(大衆食堂)とかだと、パスタはスプーンの上できれいに巻いて一口で食べるのが粋なんだよね。スプーンを使う癖をつけたほうがいいよ」
「ピザもさ、みんな知らないんだけど、あの耳って手が汚れないための持ち手として作られてるんだよ。端っこまで食べるのは意地汚く見えちゃうから、耳は残すように直したほうがいいかな」
ここは「向こうのトラットリア」なんかではなく、気取らないいつもの社員食堂なのに……。せっかくのホッと息がつける貴重な休憩時間は、先輩のお節介なマナーチェックによって、すっかり息苦しいものへと変わっていきました。
募る違和感…彼女がムキになる理由
波風を立てたくない私は「そうなんですね」と適当に話を合わせていましたが、連日のように得意げなレクチャーを聞かされているうちに、大きな違和感を覚えるようになりました。「本当にそんなマナーある?」と首をかしげたくなるような、根拠のない謎マナーに思えてきたのです。
ある日、あまりにも的外れなパスタの食べ方を語り始めた先輩に対し、私はたまらず、やんわりと質問してみました。「でも、現地でもカジュアルな場では、そこまで細かく気にしないとも聞きますが……実際はどうなんですか?」
すると、先輩の表情が一瞬でこわばり、ムキになったような強い口調で言い返してきたのです。「ちょっとネットでかじったくらいの知識で、適当なこと言わないでくれる?」
自分の知識を疑われたと感じて焦ったのか語気を強める先輩。これ以上、一方的なマウントで、毎日の貴重なランチタイムを台無しにされるわけにはいきません。私は持っていたフォークを静かに置き、居住まいを正して、先輩の目をまっすぐに見つめました。
私が明かした「秘密」
「……先輩、私、適当な知識で口を挟んだわけではないんです」
「はあ? じゃあ何だって言うの?」
「実は私の夫、生粋のイタリア人なんです。昨日、先輩が言っていたパスタやピザの食べ方について、ふと夫に聞いてみたんです」
一瞬、食堂の空気がピタリと止まりました。先輩はお茶のグラスを持ったまま、驚いたように固まっています。私は落ち着いたトーンで、誠実に言葉を続けました。
「そうしたら夫が、『そんなマナーは聞いたことがないよ。スプーンを使うのは小さな子どもくらいだし、ピザの耳まで職人さんが情熱を込めて焼いているんだよ。人によっては残すこともあるけれど、わざわざ残すのが粋だなんて聞いたことがないな』と、とても驚いていたんです。『本場では、作ってくれた人に感謝しておいしく食べるのが一番のマナーだ』って話していました」
静まり返っていた食堂に、私の声がくっきりと響きます。周囲の社員たちも、静かに私の言葉に聞き入っているようでした。先輩は気まずそうに視線をさまよわせた後、みるみるうちに顔面を真っ赤に染め上げました。いたたまれなくなったのか、手元のグラスをギュッと握りしめ、小さく身を縮めています。「そ、それ……地域によって違うんだけど!?」絞り出すようにそう叫ぶと、先輩は食べかけのトレイを持って、足早に食堂から去っていったのです。
マウントの正体
その後、先輩は気まずかったのか、私に謝ってくれました。そのとき、仕事で思うような成果が出せず、後輩たちが評価されていくことに焦っていたことを、ぽつりぽつりと話してくれたのです。育児や仕事の両立に奮闘している私に対し、自分を少しでも特別に見せたくて、過去の海外経験を大きく語ってしまっていたのだといいます。
そのプレッシャーは理解できますが、だからといって他人をマウントの標的にしていい理由にはなりません。ただ、先輩も自分の言動を深く反省したのでしょう。 それ以来、私の食べ方に口を出すことはなくなりました。
今日の社食の小鉢は、私のお気に入りの煮物です。誰の目も気にせず、自分のペースで味わうランチは格別。今、私は再び平和を取り戻した社員食堂で、同僚たちと気兼ねなくおいしいごはんを食べる幸せを噛み締めています。
◇ ◇ ◇
マナーは、周囲と気持ちよい時間を過ごすためのもの。マナーにとらわれすぎてしまい、誰かに嫌な思いをさせてしまっては、それこそマナー違反になってしまいます。お互いの時間を心地よいものにするための、思いやりの約束であるよう、気をつけたいですね。
※本記事は、ベビーカレンダーに寄せられた体験談をもとに作成しています。取材対象者の個人が特定されないよう固有名詞などに変更を加えながら構成しています。