家計のために、仕事の時間を増やすことに
子どもが大きくなるにつれて、家計の不安は少しずつ増えていきました。食費や学用品、習い事にかかるお金。今はなんとかやりくりできていても、この先ずっと同じように暮らしていけるとは思えません。
そこで私は、仕事の時間を増やしたいと夫に相談しました。夫の返事は、意外にもあっさりしたものです。
「いいんじゃない? でも、家のことは今まで通り頼むよ」
そのときの私は、夫なりに応援してくれているのだと思っていました。家事も育児も、これまで私が中心になってやってきたことです。急にすべてを変えるのは難しくても、少しずつ分担できればいい。そう考えていたのです。
けれど、実際に働く時間を増やしてみると、現実は想像以上に厳しいものでした。仕事から帰ると、すぐに夕飯の支度。洗濯物を取り込み、子どもの宿題を見て、明日の準備をする。台所で立ちっぱなしの私の横で、夫はソファに寝転び、スマホを見ています。
夕飯はまだなのか。洗濯物はたたんでいないのか。部屋が散らかっている。夫が口にするのは、手伝う言葉ではなく、そんな文句ばかりでした。
私が少し手伝ってほしいと伝えても、夫は顔をしかめます。
「俺も仕事して帰ってきてるんだけど」
「働きたいって言ったのはそっちだろ」
家のことがおろそかになるなら、仕事なんて増やすな。夫の言葉は、いつもそこに行き着きました。
私だって、好きで家のことを後回しにしているわけではありません。できる限りのことはしているつもりです。それでも一日は二十四時間しかなく、体はひとつしかない。その当たり前のことを、夫はわかろうともしませんでした。
夫に家事の分担をお願いすると…
ある夜、子どもを寝かしつけたあと、私は夫に話を切り出しました。
このままだと私ひとりでは回らない。少しでいいから、家のことを分担してほしい。そう伝えると、夫はテレビから目を離さないまま、面倒そうにため息をつきます。
「またその話?」
私は、責めたいわけではありませんでした。ただ、ちゃんと話し合いたかったのです。けれど夫は、自分は外で働いている、家のことはお前がやってきただろうと繰り返すばかりでした。
「私も働いてるよ」
思わずそう返すと、夫はようやくこちらを見ました。
「だから何? 働くって決めたのはお前だろ。俺に負担を増やすなら、最初からやめればいいじゃん」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥がすっと冷えていくのを感じました。私は夫に、特別なことを求めていたわけではありません。家族として、一緒に生活を回してほしかっただけです。疲れているときに大丈夫かと声をかける。できることを少し手伝う。たったそれだけのことさえ、夫にとっては「自分の負担を増やされる面倒なこと」でしかなかったのでしょう。
その日を境に、夫への気持ちは少しずつ変わっていきました。夫が帰宅しても、以前のように気を使って笑顔で迎えることができません。文句を言われるたびに、どうして私だけがここまで我慢しなければならないのかと考えるようになりました。
夫が突きつけてきた署名済みの離婚届
数日後、さらに決定的なことが起きました。
その日は仕事が長引き、帰宅がいつもより少し遅くなった日でした。急いで夕飯を作り、子どもに食べさせ、洗濯機を回す。座る暇もないまま動いていると、夫がテーブルを指でたたきながら、不機嫌そうに言いました。
最近、家の中が雑だ。夕飯も遅い。仕事を増やした途端これでは困る。私は、今できる範囲でやっていると伝えました。すると夫は、できる範囲では困ると言い、棚から一枚の紙を取り出したのです。
テーブルの上に置かれたのは、離婚届でした。
夫の欄には、すでに名前が書かれています。
一瞬、何を見せられているのかわかりませんでした。目の前にある紙の意味を理解したあとも、すぐには言葉が出てきません。
夫は、私が驚いた顔を見て満足したのでしょう。勝ち誇ったような表情で、こう言いました。
「ほら、俺はもう書いてある。俺はいつ離婚になっても構わないんだからな。俺に離婚届を出されたくなければ、仕事も家事もちゃんとやれ」
その言葉を聞いた瞬間、頭の中が妙に静かになりました。怒りもあります。悲しさもあります。けれど、それ以上に強かったのは、もう無理だという確信でした。夫は私を、妻として見ていないのだと思います。一緒に家庭をつくる相手でも、支え合う家族でもない。仕事をして、家事をして、育児をして、それでも文句を言わずに夫の機嫌を取る人。夫にとって私は、ただ都合よく動く存在だったのです。
私は離婚届を見つめたまま、何も言い返しませんでした。夫はそれを、私が怖がっているのだと思ったようです。わかったならちゃんとしろ、俺だって我慢している。そう言い残し、夫は寝室へ向かいました。
怖くなったのではなく、目が覚めた
その夜、夫が寝たあと、私はテーブルに置かれた離婚届をもう一度見ました。
夫の署名は、たしかにあります。夫はきっと、これを私への脅しに使うつもりだったのでしょう。まさか私が本当に受け取るとは思っていない。離婚届を見せれば、私が怖がって黙る。家事も仕事も、今まで以上に必死でこなす。夫の考えは、手に取るようにわかりました。
でも私は、その紙を見て怖くなったのではありません。むしろ、目が覚めたのです。
翌日から、私は少しずつ準備を始めました。
職場には、今後さらに勤務時間を増やせるか相談しました。家計を見直し、自分の収入でどこまで生活できるかも計算します。子どもとの暮らしに必要な手続きや、住まいのことも調べました。
もちろん、すぐに答えが出ることばかりではありません。生活費の不安もあります。仕事と育児を両立できるのかという怖さもあります。それでも、夫に脅されながら暮らし続ける未来を思うと、そちらのほうがずっと苦しく感じました。
夫には何も言いませんでした。
夫は相変わらず、私に文句を言い続けます。明日の弁当はちゃんと作ってほしい。仕事をしているからといって偉そうにするな。俺が離婚届を書いたのを忘れるな。
そのたびに、以前の私なら胸がざわついていたと思います。夫を怒らせないように、もっと頑張らなきゃと自分を責めていたはずです。けれど、もう違いました。離婚届を脅しに使う人と、この先も暮らしていく意味があるのか。何度考えても、答えは同じでした。
夫が鼻で笑った直後、私は…
準備が整った日、私は離婚届に自分の名前を書きました。
手は少し震えました。けれど、不思議と涙は出ません。封筒に入れた離婚届をバッグにしまい、私は家を出ます。子どものこと、生活のこと、これからの仕事のこと。考えなければならないことは山ほどあります。この選択が簡単なものではないことも、よくわかっていました。
それでも、脅されながら暮らす毎日を続けるよりは、前に進みたい。そう思いながら、私はある場所へ向かいました。
夫にその話をしたのは、数日後のことです。
その日も夫は、不機嫌そうに帰ってきました。玄関に入るなり部屋を見回し、夕飯の支度が少し遅れていることに気づくと、わざとらしくため息をつきます。最近態度が変わった。まさか本気で離婚なんて考えていないだろう。夫はそう言ってから、鼻で笑いました。
「離婚されたくなかったら仕事も家事もちゃんとやれよ」
私は、食器を拭く手を止めました。
「もう出したけど?」
夫の表情が固まります。
「え?」
「離婚届。もう出したよ」
夫はしばらく何も言えませんでした。ついさっきまでの余裕は消え、顔色がみるみる変わっていきます。
「いや、待てよ。何勝手なことしてるんだよ」
勝手なこと。そう言われて、私は思わず息をのみました。先に離婚届を書いて私に突きつけたのは夫です。仕事も家事もちゃんとやれと脅したのも夫でした。それなのに、いざ私が本当に動くと、夫にとっては「勝手なこと」になる。最後まで、自分の言動を都合よく忘れる人なのだと思いました。
謝らない夫に、私が出した答え
夫は慌てたように言葉を重ねました。あんなの本気じゃない。お前がちゃんとすればよかっただけだ。子どものことを考えろ。
出てくるのは、自分を守る言葉ばかりです。謝罪も反省もありません。私がどんな気持ちで毎日を過ごしてきたのか、想像する気もないのでしょう。
私は夫の目を見て、静かに伝えました。
「子どものことを考えたから、もうやめるの。お母さんが毎日おびえて暮らす家を、子どもに普通だと思わせたくないから」
夫は黙り込みました。それでも、しばらくすると小さな声で、冗談だったんだと言います。私は首を横に振りました。
「夫婦でいるための紙を、脅しに使う人とは暮らせない」
夫の顔から、血の気が引いていくのがわかりました。きっと夫は、私が本当に動くとは思っていなかったのです。離婚届を見せれば、私が怖がって黙る。もっと家事を頑張る。仕事も続け、家のことも全部こなす。そう信じていたのかもしれません。でも、私はもう戻りません。
その後の手続きは、楽なものではありませんでした。生活の不安もありますし、仕事と育児の両立が急に簡単になるわけでもありません。それでも、夫の顔色をうかがいながら暮らしていたころより、ずっと息がしやすくなりました。
今も忙しい毎日は続いています。疲れて、台所でため息をつく日もありますが、それでも夫の機嫌におびえていたころより、ずっとラクです。大変なことはありますが、今はちゃんと前を向けています。
◇ ◇ ◇
家事も仕事も、どちらか一方だけが背負い続けるものではないはずです。相手の機嫌を損ねないために無理を重ねていると、自分のつらさに気づきにくくなることもあるのかもしれません。
「これくらい我慢すべき」と思い込む前に、一度立ち止まり、今の関係が自分にとって安心できるものか考えてみることを、心に留めておきたいですね。
【取材時期:2024年8月】
※本記事は、ベビーカレンダーに寄せられた体験談をもとに作成しています。取材対象者の個人が特定されないよう固有名詞などに変更を加えながら構成しています。