仕事に集中したいと言い出した夫
私は自宅で小さな料理教室を開いています。
結婚して6年。夫とは大きなけんかもなく、それなりに穏やかに暮らしていると思っていました。私の仕事が少しずつ忙しくなり、夜まで試作や片付けをする日が増えても、夫は「好きなことを仕事にできてよかったじゃないか」と言ってくれていました。だから、夫から「平日だけ会社の近くで暮らしたい」と言われたときも、最初は本気で夫の体を心配しました。
「最近、通勤だけで疲れるんだ。会社の近くに部屋を借りれば、仕事にも集中できると思う」
夫の会社までは電車で1時間半ほど。繁忙期が続いていたこともあり、私は反対しきれませんでした。
「週末は帰ってくるんだよね?」
そう聞くと、夫は少し笑って「もちろん」と答えました。別居というほど大げさなものではなく、平日は夫が会社近くのマンションで過ごし、週末は家に戻る。夫婦の形が少し変わるだけ。私はそう考えることにしました。けれど、実際にその生活が始まると、夫は少しずつ変わっていきました。
最初のころは金曜の夜に帰ってきていたのに、やがて「疲れているから今週はやめておく」と言うようになりました。電話をしても出ないことが増え、折り返しは短いメッセージだけ。
「今度、作り置きのおかずでも持って行こうか?」
そう聞くと、夫は決まって「部屋が散らかっているからいい」と断りました。私は忙しさのせいだと思おうとしました。夫も疲れている。私も仕事に追われている。すれ違いが起きても仕方がない。そう自分に言い聞かせていました。
夫の部屋にあった違和感
でも、違和感は少しずつ大きくなっていきました。
ある週末、夫が久しぶりに家に帰ってきたときのことです。脱いだシャツから、うちでは使っていない柔軟剤の匂いがしました。夫に聞くと、「近くのコインランドリーの洗剤じゃないかな」と言われました。
それだけなら、まだ納得できたかもしれません。
けれど翌月、夫から「この資料、うちに残ってない?」と、マンションの机に広げた書類の写真が送られてきたとき、私は思わず画面を拡大しました。書類の端、ノートパソコンの横に、見覚えのない淡いピンク色のカップが少しだけ写り込んでいたのです。
「これ、誰の?」
私が聞くと、夫はすぐに「同僚が来たときに置いていっただけ」と返してきました。同僚が、わざわざ夫の部屋にマグカップを置いていくでしょうか。疑い始めると、これまで見ないふりをしていたことが、急にはっきり見えてきました。週末に帰ってこない理由。電話に出ない時間。私が部屋に行こうとすると、必ず断ること。
それでも私は、はっきり確かめるのが怖かったのだと思います。夫を信じたい気持ちも、まだ残っていました。
そんなある日、料理教室で多めに作った煮込み料理が余りました。いつもなら冷凍しておくのですが、その日はふと、夫のマンションに持って行こうと思いました。事前に連絡すれば、また断られる。そう思った私は、夫のマンションの部屋の前まで来てから電話をしました。
「今から少しだけ寄ってもいい? おかずを持ってきたの」
「少し渡すだけだから」
すると夫の声が、明らかにこわばりました。
「今日は無理だ。散らかってるし」
「いや、本当に無理。今日は絶対ダメだ!」
その言い方で、胸の奥に残っていた最後の期待が消えました。私は玄関の前で、持っていた紙袋を握りしめました。
「ごめん。でも私、もう玄関の前なの」
電話の向こうで、夫が息をのむ音がしました。
玄関の奥から聞こえた女性の声
しばらくして、部屋のドアが少しだけ開きました。夫は玄関から体を半分出し、明らかに私を中に入れまいとしていました。急に来るなんて困る、と責めるような口ぶりでしたが、私はおかずを届けに来ただけだと伝え、中に入れてほしいと頼みました。それでも夫は、今日は無理だと繰り返すばかりです。
そのとき、部屋の奥から女性の声が聞こえました。
「誰? こんな時間に宅配屋さん?」
夫の顔から、血の気が引いていきました。
私は何も言わず、夫の横から玄関の中を見ました。そこには女性ものの靴があり、廊下の先には私の知らないバッグが置かれていました。洗面所の棚には、見慣れない化粧品も見えます。夫は慌てて、これは違う、本当に違うんだと言いました。
けれど、何が違うのでしょうか。女性ものの靴も、バッグも、奥から聞こえた声も、私が何度も部屋に来ることを断られていた理由も、すべてがひとつにつながっていました。
奥から出てきた女性は、私を見るなり固まりました。夫は私と女性の間で何度も視線を動かし、情けないほど小さな声で、話せばわかると繰り返しました。やがて夫は私の腕をつかもうとしましたが、女性の視線に気づいたのか、すぐに手を下ろしました。
「頼むから、ここではやめてくれ。あとでちゃんと話す」
その場を収めたいだけなのが、よくわかる声でした。私は持っていた紙袋を、夫の足元に置きました。
「これ、最後の差し入れ。あとは弁護士を通して話しましょう」
その後、私は夫とのメッセージのやり取りや、部屋で見たもの、当日の状況を整理し、弁護士に相談しました。夫は最初こそ、一時的な気の迷いだったと言っていましたが、女性が何度も部屋に泊まっていたことは、メッセージの内容からも否定できませんでした。
後日の話し合いで、夫は「寂しかった」「お前が仕事ばかりだったから」と言いました。けれど、私が仕事を頑張っていたことと、夫が私を裏切ったことは別の話です。寂しかったなら話し合えばよかった。すれ違っていたなら、向き合えばよかった。夫婦でいることから逃げたのは、夫のほうです。
離婚協議は簡単ではありませんでした。夫は慰謝料の金額を聞いた途端、とても払えないと声を荒らしました。けれど、それも私が背負うことではありません。夫が自分で選んだ行動の結果です。
最終的に、私たちは離婚しました。夫からは慰謝料を受け取ることになり、私は夫婦で暮らしていた家を出て、料理教室を続けられるキッチン付きの部屋に移りました。
不倫相手と再婚した夫…新生活の現実は
離婚後、夫はあの女性と再婚したそうです。きっと夫は、私と別れれば自由になれると思っていたのでしょう。面倒な話し合いから解放され、好きな人と好きなように暮らせる。そんな都合のいい未来を描いていたのかもしれません。でも、現実は違ったようです。
共通の知人によると、夫は慰謝料の支払いで以前のように自由にお金を使えず、再婚相手とも生活費のことでたびたび口論になっていたそうです。さらに、夫の両親も再婚を喜びませんでした。義母は離婚が決まる前、私に電話をくれました。
「本当にごめんなさい。あなたに謝って済むことではないけれど、息子がしたことは許されることじゃない」
義母はその後、夫に「自分で壊した家庭の責任は、自分で取りなさい」と告げたそうです。夫が金銭的に苦しいと相談しても、手を貸すことはなかったといいます。
頼れると思っていた親にも距離を置かれ、新しい家庭でもお金のことでもめる日々。夫が望んで手に入れた生活は、思っていたような幸せではなかったのでしょう。共通の知人から、夫が「前の生活のほうがよかった」とこぼしていたと聞いたことがあります。でも、それを壊したのは夫自身。
離婚してから、夫の連絡を気にして過ごす時間はなくなりました。今は料理教室の生徒さんも少しずつ増え、新しい季節メニューの準備を進めています。「家でも作ってみました」と報告してくれる生徒さんの笑顔に、私のほうが元気をもらうこともあります。
しばらくは、この教室を続けることに集中するつもりです。忙しい毎日ですが、今の私には、その忙しさが少し心地よく感じられています。
◇ ◇ ◇
夫婦であっても、相手の言動に違和感を覚えることはあるかもしれません。その違和感を確かめるには勇気がいりますが、見て見ぬふりを続けるほど苦しくなることもあるのではないでしょうか。自分の心がざわついたときは、一歩踏み出して向き合うことが、大切なのかもしれませんね。
【取材時期:2026年6月】
※本記事は、ベビーカレンダーに寄せられた体験談をもとに作成しています。取材対象者の個人が特定されないよう固有名詞などに変更を加えながら構成しています。