額を切って出血した息子は、そのまま救急車で病院へ搬送されました。私は「出張」と言って出かけた夫に、何度も何度も電話をかけ続けます。
息子が自転車とぶつかった理由
「何度も電話してくんなよ!」
「出張中だって言ってるだろ!」
「出張?女と一緒に私の目の前歩いてたのに?」
「え?」
その日、私は義母と息子とともに、義母が通っている美術教室の体験に向かっていました。普段の生活圏からは離れている場所ですが、息子が絵画に興味を持っていることもあり、体験させることにしたのです。
その道の途中、交差点の角で信号を待っていたときでした。目のいい息子が、道路の向こう側を指さして「パパ!」と声を上げます。そして、つないでいた私の手を引き、夫のいる方へ身を乗り出しました。その瞬間、私たちの脇を追い越そうとした自転車がよけきれず、息子に接触したのです。転倒した息子は額を切って出血し、すぐに救急車を呼びました。
息子が見つけた先にいたのは、出張だと言っていた夫。見知らぬ女性と手をつないで歩いていました。
救急車を待つ間、私は夫の名前を呼びました。しかし、周囲の騒音にかき消されたのか、夫はこちらを振り返りません。女性と話しながら、そのまま人混みの中へ消えていきました。
一緒にいた義母は、その女性にどこか見覚えがある様子でした。
病院に着いてしばらくしてから、義母は「高校の頃の同級生だった気がするわ……。たしか、あの子も結婚しているはず……」とつぶやきました。確証はない、とも言い添えて。
ようやく電話に出た夫に、私は息子が自転車と接触して救急搬送されたことを伝えました。しかし夫は、息子のけがの程度を詳しく尋ねることもなく、「意識はあるんだろ? だったら大丈夫だろ」「今すぐには行けない」と言ったのです。
もし、事情を知ったあと、すぐに病院へ駆け付けてくれていたら、まだ夫を許せたかもしれません。しかし夫は、息子の無事を自分で確かめようともせず、その日は病院に来ませんでした。家族に何かあったときでさえ、自分の都合を優先する夫を、私はもう信じられませんでした。
こんな夫、いらない。こんな夫を、もう家族として信じることはできない。息子の命に別条がないとわかって少し安心したものの、私の中に、抑えきれない怒りが込み上げてきました。
夫の反省
数日後――。
息子は数針縫うけがをしましたが、後遺症もなく、数日の入院で済みました。夫からは連日、謝罪と言い訳のメッセージが届きます。
最初、夫は「人違いだろ」の一点張りでした。
「私、すぐ近くにいたの。顔もはっきり見たから」
そう伝えると、今度は「取引先の人と歩いていただけだ」と言い出します。
「取引先の人と手をつなぐの?」
それも通らないとわかると、ようやく「高校時代の同級生だ」と認めました。
「学生時代のノリで手をつないで歩いていただけで、深い意味はないんだよ」「来月転勤で地方に行くのが嫌だったらしくて、思いっきり遊びたいって言われて付き合ってただけなんだ」「離婚するつもりなんてなかった。家庭とは別の話だろ」
息子が事故に遭ってから、私は事実を確かめるため、夫の説明と家計の記録を一つずつ照らし合わせていきました。夫が「出張先」として挙げた場所や日程は、聞き直すたびに食い違います。クレジットカードの利用履歴には、自宅からも職場からも離れた街のホテルや飲食店の支払いが並んでいました。
さらに、充電したままリビングに置かれていたタブレットには、相手の女性から「次はいつ会える?」というメッセージの通知が表示されていました。義母は夫をかばうことなく、入院中の息子の世話を手伝ってくれました。息子との外出の約束は仕事を理由に破る一方で、元同級生とは時間を作って会っていた夫。「不倫していない」と言い張るものの、夫の説明を信じられる余地は、もう残っていませんでした。
やっぱり許せない
「嘘つき」「やっぱり離婚して」と言うと、「なんでだよ!」と夫は逆ギレ。けれども、私が利用履歴とメッセージを突き付けると、夫は黙り込みました。
それからしばらくして、相手の女性から、義母を通じて連絡が入りました。女性は高校時代の同級生をたどって義母の連絡先を調べ、私に謝罪したいと申し出たそうです。
女性は夫から、「妻とはうまくいっていない」「近いうちに離婚するつもりだ」と聞かされていたとのことでした。しかし、息子の事故について夫に尋ねても、夫は詳しい事情を話そうとしなかったそうです。不審に思った女性が義母に連絡して確認したところ、私たち夫婦が離婚の話などしていなかったことを知り、夫にだまされていたと気付いたといいます。
春に開かれた同窓会で、久しぶりに再会した夫と女性。高校時代に互いに好意を持っていたことがわかり、そこから不倫関係に発展したとのことでした。すでに証拠は出そろっていましたから、私にとっては答え合わせのようなものでした。
「向こうの転勤までの期限付きの関係だった」「お前も息子のことも大事で、家庭を捨てようと思ったことはない!」と言う夫。不倫期間中、私と息子のことをずっとないがしろにしてきたことを忘れたかのような言い分に、もう呆れる気力も残っていません。
何より、出張だとうそをついて不倫を続けていたことが、どうしても許せませんでした。どんな言い訳をされても、裏切られた事実が消えるわけではありません。
その後――。
息子の退院後、私は息子を連れて実家へ移りました。弁護士に相談し、夫とは必要な連絡だけを取る日々。数カ月の話し合いを経て、離婚が成立しました。義母によると、不倫相手の夫婦も離婚したそうです。
先日、夫から「もう一度やり直したい」という連絡が届きました。私が返したのは、短いメッセージだけです。
「一度失った信頼は戻らないの。あなたとやり直すつもりはありません」
それきり、返信はしていません。私と息子は今、私の実家で暮らしています。両親にたくさん遊んでもらい、息子にも少しずつ以前の笑顔が戻ってきました。夫から離れて初めて、約束を破られる心配のない毎日が、こんなにも穏やかなものだと知りました。これからは息子の笑顔と、自分の気持ちを大切にして生きていこうと思っています。