思いを込めた指輪を拒絶されて
食事が一段落したところで、私は指輪の入ったケースを取り出しました。
「俺と結婚してください」
S美は驚いた表情で指輪のケースを手に取ると、しばらく黙って指輪を眺めていました。しかし、次第に表情が曇っていきました。
「これ、どこのブランド?」
私は、ブランドの既製品ではなく、自分でデザインを考え、工房の職人に仕立ててもらった指輪だと説明しました。中央には、昔から大切に保管していた青い宝石が留められていました。その石は、幼いころに家族ぐるみでお世話になった恩人から譲り受けたものでした。
「大切な人ができたら、この石を使ってほしい」と渡された、私にとって思い入れの深い品です。プロポーズを決めたとき、宝石店で石の状態を確認してもらった上で、工房で指輪に仕立ててもらいました。
ところが、S美は指輪をケースへ戻すと、私のほうへ押し返しました。
「婚約指輪なのに、ブランド物じゃないの? 普通はダイヤモンドでしょ」
「この石には、値段だけでは測れない思い出があるんだ」と伝えましたが、S美は納得できない様子でした。
「人からもらった古い石を使うなんて、私には理解できない。もっとちゃんとした指輪を用意してくれると思っていた」
思いを込めて準備した品を否定され、私は言葉を失いました。
「余裕のある人だと思っていたのに」
S美はさらに、これまで胸の内に抱えていたらしい不満を口にし始めました。
「あなたが高そうな服を着ていたり、いろいろなお店を知っていたりしたから、もっと余裕のある人だと思っていたの」
そして、私が勤務先や仕事内容について詳しく話していなかったことを持ち出しました。
当時の私は、ある製造会社で営業職をしていました。S美にも製造会社で営業の仕事をしていることは伝えていましたが、会社名や具体的な収入までは話していませんでした。以前、勤務先や収入を知った交際相手から、急に高額なものを求められるようになった経験があったためです。
もちろん、結婚を申し込むにあたり、この日のうちに仕事内容や収入、将来の生活についてきちんと説明するつもりでした。
しかし、私が話す前に、S美はこう言いました。
「会社名や収入を話さないのも、本当は収入が少ないからじゃないの? 今まで無理をして、余裕があるように見せていたの?」
私は生活を偽っていたわけではありません。それでもS美は、私の説明を聞こうとはしませんでした。
S美は「あなたは期待外れだった」と言い、指輪のケースをテーブルに置いたまま席を立ちました。私はプロポーズを断られたことよりも、S美が私自身ではなく、収入や肩書を基準に結婚相手を選ぼうとしていたことにショックを受けました。
その後、私は連絡を取って改めて話し合おうとしましたが、お互いの価値観の違いは埋まらず、交際を終えることになりました。
数年後、ホテルで思わぬ再会
それから数年後、私は仕事の出張で、あるホテルを訪れました。別の会社との会食を控え、ロビーで待っていると、見覚えのある女性がこちらへ近づいてきました。S美でした。
S美は恋人らしい男性と一緒にいました。私に気付くと、驚きながらも声をかけてきました。
「久しぶり。こんなホテルを利用するなんて、ずいぶん奮発したのね」
私が無理をして高級ホテルへ来たと思っているようでした。
S美は隣の男性を婚約者だと紹介し、よく知られた企業に勤めていることや、高価な婚約指輪を贈ってもらったことを話し始めました。
すると、その男性が私の顔を見て表情を変えました。
「もしかして、先日の合同プロジェクトで説明を担当されていた方ですか?」
彼の会社は、私の勤務先と取引がある企業でした。私は当時、新規事業の責任者を任され、複数の取引先が参加する会議で説明をしたばかりだったのです。
男性はS美に、私が先日のプロジェクトで説明を担当した、取引先の新規事業責任者だと伝えました。
「えっ……あなたが、そんな立場に?」
驚くS美に、私は「あれから仕事を続けて、今の役割を任せてもらえるようになったんだ」とだけ答えました。
そのとき、S美は私のネクタイに付けていた青い石のネクタイピンに目を留めました。あの指輪に使われていた石だと気付いたのか、一瞬驚いたように目を見開きました。
私は、婚約指輪として仕立てたあの指輪から石を外し、ネクタイピンに仕立て直していました。今でも私にとって、家族を支えてくれた恩人との思い出が詰まった大切な品です。S美は気まずそうに視線をそらしました。
隣にいた男性は私に向かって丁寧に頭を下げ、「先日のプロジェクトではお世話になりました。今後ともよろしくお願いいたします」と言いました。
「こちらこそ、よろしくお願いします」
私が答えると、男性はS美を促し、2人はその場を離れていきました。去り際のS美に、先ほどまでの得意げな様子はありませんでした。
人の価値は肩書きや持ち物では決まらない
S美との別れを経験した当時は、心を込めて用意した指輪まで否定されたことが悲しく、しばらく立ち直れませんでした。
しかし、振り返ってみると、結婚する前にお互いの価値観の違いがわかったことは、私にとって必要な出来事だったのかもしれません。
高価な品や有名なブランドに魅力を感じること自体が悪いとは思いません。ただ、それだけを基準に相手の人柄や暮らしぶりまで決めつけてしまうと、大切なものを見失うこともあるのだと感じました。
恩人から受け取った石は、今もネクタイピンとして大切にしています。見るたびに思い出すのは、その金銭的な価値ではなく、苦しい時期に家族を支えてくれた人の温かさです。
これからも肩書きや収入に頼って自分を大きく見せるのではなく、日々の仕事や人との向き合い方を大切にしていきたいと思っています。
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心を込めて用意した指輪を、値段やブランドだけで否定された主人公。つらい別れではありましたが、結婚前にお互いの価値観の違いが明らかになったことは、長い目で見れば必要な出来事だったのかもしれません。肩書きや収入、持ち物だけでは、その人の歩みや大切にしている思いまではわからないもの。相手の話を聞かず、目に見える条件だけで人を判断しないことの大切さを感じるエピソードです。
※本記事は、実際の体験談をもとに作成しています。取材対象者の個人が特定されないよう固有名詞などに変更を加えながら構成しています。
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