家族旅行の行き先は
ある日、妻が「SNSで話題の人気旅館を予約したから」と家族旅行を勝手に手配していました。宿の名前を尋ねても、「当日までのお楽しみ」と教えてもらえず……。僕は気乗りしないまま同行することにしました。
ところが、到着して目の前に広がる建物を見た瞬間、僕は息を飲みました。大規模な改装によって外装は大きく変わっていたものの、そこは幼いころを過ごした実家の老舗温泉旅館だったのです。
跡取りとして期待される重圧に耐えきれず、僕は数年前に家を飛び出しました。それ以来、一度も帰ることができなかった実家でした。
そんな僕の事情を知る由もなく、義母は旅館へ着くなり「高卒の夫が一緒だと恥ずかしい」と鼻で笑っていて……。妻もため息をつきながら「あなたはその辺のビジネスホテルにでも泊まれば? 私たちは一番いい部屋に泊まるから」と冷たく言い放ちました。
思いがけない再会
そのとき、旅館で仲居として働いていた幼なじみが僕に気が付いたよう。 彼女は涙ぐみながら、「もしかして…帰ってきてくれたの?」 と驚く僕に声をかけてくれました。
彼女は今では女将見習いとして旅館を支えていました。僕の姿を見ると、事情を聞く間もなく慌てて両親へ連絡を入れてくれました。
数分後、本館の奥から両親や従業員たちが慌てた様子で駆けつけてきます。 「おかえりなさい」「心配したのよ」と誰ひとり僕を責めることなく、温かく迎えてくれる姿に胸が熱くなりました。
僕が逃げ出した後も、家族や従業員たちは、いつか帰ってくる日を信じて待ち続けてくれていたのです。
豹変した妻と義母
そんな光景を見ていた妻と義母は、事情を聞いて驚いていました。
「えっ、この旅館ってあなたの実家なの?」
「しかも、あなたが跡取りだったなんて…!」
さっきまで見下していたとは思えないほど、2人は急に笑顔になりました。
義母は、「旅館を継ぐってことよね? 今までのことは水に流してよ。私たちも旅館を手伝うから!」と言っていて……。露骨に態度を変える2人を見て、僕の気持ちは完全に冷めていきました。
僕が「今さら、もう無理だよ。離婚しよう」と言うと、妻は顔色を変えて叫びました。
「跡取りなら将来は安泰でしょ? 離婚なんて絶対に嫌!」
すると、義母まで「跡取りならお金はあるんでしょ!? 離婚するなら慰謝料としてたっぷり払ってもらう!」と騒ぎ始めました。
しかし、2人には両親や従業員たちの冷ややかな視線が突き刺さっていて……。居心地の悪さに耐えられなくなった妻は、慌てて義母の腕をつかむと、その場から逃げるように旅館を後にしました。
過去と向き合うことにした僕
その後、僕は妻と正式に離婚し、勤めていた会社も退職しました。
そして、再び両親のもとへ向かい「もう逃げない。1から下働きとして修業させてください」と深く頭を下げてお願いしました。僕の行動に両親は静かにうなずいてくれて……。僕を迎え入れてくれました。
それからの毎日は掃除や布団敷き、料理の仕込み、接客など、地道な仕事の連続でした。失敗して落ち込む日もありましたが、従業員の皆さんは根気よく支えてくれました。
少しずつ仕事を覚え、お客さんから「ありがとう」と声をかけてもらえるたび、この旅館をもう1度守りたいという思いが強くなっていきました。そばには、変わらず応援してくれる幼なじみの姿もありました。
逃げ出したという過去は変えられないと思います。それでも、過去から目を背けず、1歩ずつ前へ進めば、人はやり直すことができると感じています。僕は、今日もこの旅館で、新しい人生を歩み続けています。
※本記事は、実際の体験談をもとに作成しています。取材対象者の個人が特定されないよう固有名詞などに変更を加えながら構成しています。
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