「教える時間があるなら自分の腕を磨けば?」
当時のAケーキでは、経験のあるスタッフに仕事が集中し、後輩が新しい作業を覚える機会がなかなかつくれずにいました。私も日々の業務をこなしながら、「このままでは一部のスタッフに負担が偏ってしまう」と感じていました。
そこで私は、後輩の練習時間を確保しながら、それぞれが商品開発にも挑戦できるよう、シフトや作業分担を見直す案を考えました。
店長にも相談したところ、「一度やってみよう」と了承してもらうことができました。
しかし、その話を先輩パティシエのC山にすると、反応は冷ややかでした。
「後輩の育成なんてする必要ある? 腕は自分で磨くものでしょ」
「他の人を育てる時間があるなら、自分のことを考えたほうがいいと思うけど」
C山は経験も長く、仕事も速い人でした。一方で、自分の技術をほかのスタッフに教えることにはあまり積極的ではありませんでした。
私は、「一部の人しかできない仕事が多いと、誰かが休んだときに店全体が回らなくなります。みんなが少しずつできることを増やしたいんです」と説明しました。
しかし、考え方の違いは埋まりませんでした。しばらくしてC山から、「近くの洋菓子店から声をかけてもらっているから、そちらへ行くことにした」と退職の申し出がありました。
C山は、「向こうは個人の商品開発を重視しているみたいだし、私にはそっちのほうが合っていると思う」と話し、その後、別の店へ移ることになったのです。
先輩がいなくなった厨房に起きた変化
経験豊富なC山が抜けたことで、最初は私たちも不安でした。しかし、だからこそ「特定の人に頼らなくても仕事が回る厨房にしよう」と考え、以前から準備していた取り組みを本格的に始めることにしました。
後輩には、簡単な作業から少しずつ担当してもらい、経験のあるスタッフが交代で教えます。レシピや作業手順についても、担当者だけが把握するのではなく、できるだけ共有するようにしました。
もちろん、すぐにすべてがうまくいったわけではありません。それでも、数カ月がたつころには、以前は一部のスタッフしか担当できなかった作業を任せられる人が増えていました。
新商品のアイデアについても、経験年数に関係なく意見を出し合うように。後輩から出た案をベテランが技術面で補うなど、それまでにはなかったやりとりも増えていきました。新しい商品を店頭に並べる機会も少しずつ増え、お客さまからうれしい感想をいただくこともありました。
そんな様子を見ながら私は、「誰かひとりの技術に頼るのではなく、みんなが成長することで店全体の力も上がっていくんだな」と感じるようになりました。
急な大型注文でわかった「チームの強さ」
そんなある日、店に大型ケーキについての相談が入りました。地域の施設で開かれる周年パーティーに向けたもので、当初依頼していた店では製造体制の都合から対応が難しくなり、急きょ別の店を探しているとのことでした。通常より短い準備期間だったため、引き受けられるかどうか、私たちも慎重に検討しました。
サイズやデザイン、必要な材料、当日までの作業工程をスタッフ全員で確認したところ、分担すれば対応できそうだと判断しました。店長とも相談し、依頼を受けることになりました。
制作当日は、生地を担当する人、デコレーションを担当する人、仕上げを確認する人と、それぞれの得意分野に合わせて仕事を分担しました。
途中で予定より作業に時間がかかった部分もありましたが、別のスタッフがすぐにフォローに入り、無事に時間までに完成させることができました。
完成した大きなケーキを前にしたとき、私は数カ月前の厨房を思い出しました。以前なら、急な依頼には対応できなかったかもしれません。しかし、普段から後輩を含めて店全体で技術や手順を共有していたことで、それぞれが自分のできる仕事を判断し、足りないところを補い合うことができたのです。
後になって、依頼者から、この注文を当初依頼していた店が、C山の転職先だったことを知りました。複雑な気持ちもありましたが、私はC山の転職先と比べて優劣をつけるよりも、自分たちが続けてきた取り組みが結果につながったことをうれしく感じました。
まとめ
今回の経験を振り返り、誰かひとりの技術に頼るのではなく、それぞれの力を生かせる環境をつくることも、厨房を支える大切な仕事なのだと感じました。
私自身も、自分の技術を磨くだけでなく、周囲と知識や経験を共有しながら、店全体で成長していくことの大切さを実感した出来事です。
※本記事は、実際の体験談をもとに作成しています。取材対象者の個人が特定されないよう固有名詞などに変更を加えながら構成しています。
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