退職が決まって数日後、義母から話を聞いたという義姉から電話がかかってきました。
「ねえ、弟が仕事辞めるって本当なの? お給料も良かったんでしょ? もったいなくない?」
義姉は夫の3つ上。昔から弟と比べられてきたそうで、義父母とぶつかることも多い人でした。それでも夫は「姉貴は寂しがりなんだよ」と言い、義姉の愚痴に何時間も付き合ったり、頼まれごとを快く引き受けたりと、ずっとやさしく歩み寄って接してきたようです。
私が夫の体調を説明すると、義姉はこう言いました。
「ふーん。あいつ、意外とメンタル弱いんだね。嫁に養ってもらうなんて情けない。昔からエリートぶって周りを見下してたくせに」
夫はやさしい人で、周りの期待に応えようとずっと頑張ってきたのだと思います。だからこそ、限界まで溜め込んでしまったのでしょう。それにエリートぶって周りを見下したことなどないはずです。
義姉の言葉には激しい怒りを覚えましたが、夫に直接ぶつけられるのだけは避けたかったため、私は相槌を打ちながらただただ耐えて聞くしかありませんでした。
夫が見つけた「やりたいこと」
退職後、私は近所の食堂でのパートを週3日から週5日に増やし、夫には療養に専念してもらいました。
半年ほど経つと、少し元気を取り戻した夫が、人手の足りない日に食堂の厨房を手伝うように。もともと料理が好きな人で、店主に「筋がいいね」と褒められ、久しぶりに心から笑っていました。
そして「小さくてもいいから、自分の店をやってみたい」次第に夫は、そんな夢を持つようになったのです。
幸い夫の体調は順調に回復し、主治医の先生からも「無理のない規模で」と開店を後押ししてもらいました。居抜き物件で初期費用を抑え、開業資金は貯金でまかない、夫婦2人で小さな居酒屋を開いたのです。
開業前、夫は、仲の良かった同期に報告のメールを送ったよう。みんな夫の挑戦を喜んでくれ、開店時には駆けつけてくれました。夫は本当に嬉しそうでした。
退職から1年後
退職から1年ほどたったお盆、義実家で義姉と顔を合わせました。夫が義父と庭に出ているあいだ、台所で二人きりになると、義姉はさっそく夫の話を切り出します。
「そろそろ大企業を辞めたこと、後悔してるんじゃない? 居酒屋なんて利益出てるの? 今どき飲食店なんて潰れるのが当たり前よ」
たしかに手元に残るお金はまだ少ないものの、夫はすっかり元気になりました。挑戦してよかったと心から思っていると言うと、義姉は「開業資金はどうしたの? まさかうちの親に出してもらってないわよね?」と探りを入れてきます。
もちろん開業資金は全額、自分たちの貯金です。その後も義姉は私たちの挑戦にケチをつけてばかり……。
生き生きと仕事をする夫を見たらわかってくれるのでは、と思った私は「よかったらお店にも来てください。親族割引しますから」と言いました。
すると義姉は「ふーん……。じゃあ、職場の送別会で使わせてもらおうかな。25人くらいなんだけど入る?」と、店に来てくれるよう。
小さい店ですが、貸し切りにすれば、なんとか入れるでしょう。私は義姉の予約を受けることにしました。
突然の予約キャンセル
義姉の予約に向けて、改めて日時や人数、予算を確認した私。あとから問い合わせがあった予約はお断りしました。
ところが当日の昼過ぎ、仕込みの最中にLINEが届きます。『ごめーん、送別会なくなったからキャンセルで』
一瞬、何かの間違いかと思いました。しかし、義姉は申し訳ないそぶりも見せず『25人分の料理がパァね!ざまぁ!』と酷い言葉を送ってきます。
『キャンセル料なんて払わないわよ。身内なんだから細かいこと言わないで。そもそも事前にキャンセル料の話なんて聞いてない! 言わないあんたたちが悪いんでしょ』
私が『……もしかして、最初からそのつもりだったんですか?』と尋ねると、『だったら何? 店を経営するのがどれだけ大変か、教えてあげたのよ。親心みたいなもんでしょ』と開き直りました。
それは親心ではなく、ただの嫌がらせです。厨房に目をやると、夫が包丁を持ったまま青い顔で立ち尽くしていました。
夫を救ってくれたのは?
夫はひどくショックを受けていました。それに、こんなにたくさんの料理を無駄にするわけにはいきません。
私は『25人分の宴会の料理が余ってしまった』『誰か食べに来ませんか』と、お店のSNSに投稿してみることにしました。
するとその夜、元同僚の方々が15人も駆けつけてくれたのです。そこには退職以来気まずくなっていた夫の元上司もいました。
「あのとき、もっと早く気づいてやれればよかった」そう頭を下げる元上司に、夫は涙をこらえながら「こちらこそご迷惑をおかけしました」と答えていました。夫が頑張っていた日々が報われたような気分でした。
その後、常連さんも顔を見せてくれ、お店は満席に。なんとか料理を無駄にせずにすみました。
閉店後、夫は義姉に電話をかけていました。「元の職場のみんなが来てくれたおかげで店はなんとかなった。でも、今回ばかりは許せない。妻まで傷つけたんだ。きちんと責任を取ってもらうから」淡々とした様子でしたが、たしかな怒りを感じる声でした。
義姉の本音
数日後、私たちは開業のときにお世話になった弁護士さんに相談し、無駄になった食材費やお断りした予約分などを請求する方針を、義姉にもLINEで伝えました。
また、義姉は「職場の送別会」として予約していたため、夫は義姉の勤務先の社長である伯父に事実確認をすると、そんな予定はなかったとのこと。伯父は何度も謝ってくれたそうです。
義姉から連絡が返ってきたのは夕方のことです。
「伯父さんに何言ったのよ! ほんの冗談だったんだってば! 料理も無駄にならなかったんでしょ!?」
「駆けつけてくださった方々から、定価をいただけるわけがありません。赤字は赤字です。弁護士さんを通してお話しさせていただきます」
しばらく沈黙が続いたあと、義姉は絞り出すように言いました。
「だって……ずるいじゃない。いつも弟ばっかり周りに大切にされて……。みんな私にだけ厳しいのよ」
私が「夫が周りに助けられるのは、甘やかされているからではありません。誠実に頑張ってきたからです。周りからの信頼は、自分自身の行動で積み重ねていくものではないでしょうか」と告げると、義姉は何も言わず、電話を切りました。
義姉の末路
弁護士さんを交えた話し合いの末、義姉が損害分を支払うことで、この件は決着しました。
義母から聞いた話では、義姉は勤務先でも以前から遅刻や欠勤が続いていたそう。今回の件で伯父から厳しく注意を受け、居づらくなって自ら退職したと聞きました。
一方、あの日以来元同僚や上司の皆さんはすっかり常連さんに。新しいお客さんも連れてきてくださり、お店は少しずつ軌道に乗りつつあります。
カウンター越しに楽しそうにお客さんと話す夫を見るたびに、あの決断は間違っていなかったと感じます。義姉をすぐに許せる気持ちにはなれませんが、いつか自分の足で立ち直ってくれたらとは願っています。
◇ ◇ ◇
心身の不調から退職し、新たな道を歩み始めた夫と、その決断を信じて支え続けた妻。限界まで頑張ってきた人にとって、立ち止まることは逃げではなく、自分を守るための大切な選択です。
夫が再び笑顔を取り戻せたのは、そばで信じ続けた妻の存在があったからこそ。身近な家族だからこそ、肩書きではなくその人自身を見つめ、挑戦する姿をあたたかく応援できる関係でありたいですね。
また、身内だからといって、何をしても許されるわけではありません。大人数の予約を当日にキャンセルすれば、仕込んだ食材や確保していた席、お断りしたほかの予約まで、すべてが無駄になってしまいます。
家族の新しい挑戦には、足を引っ張るのではなく、そっと背中を押せる存在でありたいもの。困ったときに支え合える関係を築いていきたいですね。
【取材時期:2026年8月】
※本記事は、実際の体験談をもとに作成しています。取材対象者の個人が特定されないよう固有名詞などに変更を加えながら構成しています。