社長からの思いがけない依頼
社長のもとへ向かうと、そこには娘さんもいました。
彼女が小さかったころ、社内イベントで何度か一緒に遊んだことがあります。当時はよく懐いてくれていたのですが、久しぶりに会った彼女はスウェット姿でうつむき、どこか元気がありませんでした。
「実は来月から、妻と長期の海外視察に行くことになってね。その間、引きこもりの娘を預かってくれないか」
突然のお願いに、僕は驚きました。
「ええと……預かるというのは、一緒に暮らすということでしょうか?」
詳しく聞くと、同居ではなく、社長が個人で僕の隣の空き部屋を借り、娘さんはそこで暮らす予定だと言います。その間、近くで気にかけてほしいというお願いでした。
「いろいろあって、人と関わることに不安を感じるようになっていてね。一人で外出するのも、まだ難しいんだ。ただ、君のことは小さいころから覚えていて、今回の話をしたら、君が近くにいてくれるなら心強いと言っていてね」
娘さんの方を見ると、小さくうなずきました。
「身の回りのことも、これまでは親がすることが多くて、家事はほとんど経験がないんだ。何もかも任せたいわけではないから、無理のない範囲でお願いできないだろうか。もちろん、仕事とは関係のない個人的なお願いだから、断ってくれて構わない」
戸惑いはありましたが、娘さん自身も望んでいると分かり、僕にできることがあればと思って引き受けることにしました。
料理をきっかけに、少しずつ
こうして、隣の部屋に住む娘さんを見守る日々が始まりました。
彼女は僕に対しても緊張している様子で、最初のうちはドア越しに短く言葉を交わす程度。僕は仕事終わりに作った料理をおすそ分けしながら、無理に会話を続けないよう心がけました。
「無理に話さなくても大丈夫だよ」
彼女のペースに合わせて接しているうちに、会話が増え、一緒に料理や家事をするようになったのです。
「今日は簡単なことからやってみようか」
自分の手で料理を作れたときの、嬉しそうな笑顔が印象に残っています。できることが一つずつ増えるにつれ、僕にも心を開いてくれるようになりました。
近所のスーパーへの買い出しをきっかけに、一人で外に出る機会も増えていきます。服を選んだり、部屋を整えたりすることも、次第に楽しめるようになっていったようです。

空港での驚きの再会
数か月後、海外視察を終えた社長夫婦が帰国する日がやってきました。
「私も迎えに行きたい」
彼女の希望で、僕たちは一緒に空港へ向かうことに。
到着口から出てきた社長夫婦は、待っていた娘さんの姿を見て目を丸くしました。シックなワンピースを着た彼女が、笑顔で手を振っていたのです。
「おかえり、お父さん!」
嬉しそうに駆け寄る娘さんに、社長も驚きを隠せません。
「えっ!? 迎えに来てくれたのか!」
「僕はほんの少し手助けをしただけです。頑張ったのは彼女自身ですよ」と伝えると、社長は涙を浮かべて僕の手を握りました。
「本当にありがとう……君に頼んで本当によかった」
何度も感謝を伝えてくれる社長と、隣で笑う娘さん。その姿を見て、僕まで嬉しくなりました。
今も彼女は、自分のペースで外出や日々の暮らしを楽しんでいます。あのとき引き受けた思いがけないお願いが、彼女の一歩をそっと支えるきっかけになったのなら、僕にとっても嬉しいことです。
※本記事は、実際の体験談をもとに作成しています。取材対象者が特定されないよう、固有名詞などに変更を加えながら構成しています。