病後にサポートしてくれた1人目妊娠期
第1子を妊娠して7カ月のとき、子宮頚管長が短くなっており、早産の心配があるため極力動かず安静に過ごすようにと医師から伝えられました。もともと現住所から新幹線で2時間ほどの場所にある実家に里帰りして出産する予定でしたが、医師のすすめを受け、時期を早めて出産予定日の3カ月前に実家へ戻って安静生活に……。
私が実家に戻ることになった数週間後に母は乳がんの手術を控えていましたが、術前術後の大変な時期に、動けない状態の私のサポートをしてくれました。買い物に行けない私に代わって育児グッズのほとんどを揃えてくれたのも母です。
退職してサポートしてくれた2人目妊娠期
さらに第2子を妊娠して4カ月のときには突然の出血があり、絨毛膜下血腫で切迫流産になってしまった私。8割方流産すると告げられ、安静にすることだけが妊娠継続の望みになるという状況でした。ちょうど上の子が幼稚園の夏休みの時期だったので、医師の許可を得て、またすぐに実家に戻り安静生活に入りました。
上の子のお世話がある分、前回より大変な安静生活です。母は長年務めていた会社の定年退職を翌年に控えていましたが、「必要とされているときに手伝ってあげたいから」と、私のサポートのために1年前倒しで仕事を辞め、再び全力でサポートしてくれました。
母のおかげで守ることができた安静生活
上の子の夏休みが終わると幼稚園再開のため夫と暮らす家に戻りましたが、毎週のように近くはない道のりを母は新幹線を使って私の家まできてくれました。慣れない土地で、買い物から上の子の幼稚園送迎までさまざまなことをサポートしてくれた母。
おかげで私はきちんと安静生活をまっとうすることができ、2人目の子を無事出産しました。下の子の妊娠期にはずっと母が相手をしてくれていたため、上の子はこの一件ですっかり「おばあちゃん子」になりました。
安静生活を告げられたときは、どちらの妊娠時も1日中寝ているような生活ができる気がしませんでした。長い安静生活を耐え抜いて2人の子どもたちの妊娠を継続し、無事に出産することができたのは、母の献身的なサポートの力が大きかったです。また、夫はもちろん、実家での生活を母と一緒にサポートしてくれた父にも深く感謝しています。
※本記事の内容は、必ずしもすべての状況にあてはまるとは限りません。必要に応じて医師や専門家に相談するなど、ご自身の責任と判断によって適切なご対応をお願いいたします。
監修/助産師REIKO
著者:澤崎 凪
1男1女の母。パーソナルカラーコーディネーターの資格を持ち、色彩関係、ファッション関係のほか、自身の体験をもとにした子育て関係のジャンルを中心にライターとして活動中。