部署に配属された期待の新人
その春、私が教育係を任されたのは、A男という有名大学卒の新人です。頭の回転は速いものの、自分から質問することは少なく、どこか周囲の顔色をうかがっているような印象でした。
ある日、A男が作成した資料を確認すると、計算ミスや入力漏れがいくつか見つかりました。
私は提出前にもう一度見直すよう伝え、修正箇所を説明。するとA男は申し訳なさそうに謝り、その日のうちに修正した資料を提出してくれました。
「すぐに直してくれてありがとう。これなら大丈夫そうだね」
そう声をかけると、A男はほっとしたように笑顔を見せました。さらに帰り際には、「今日はありがとうございました。ちゃんと教えていただけて、すごく勉強になりました」と、丁寧にお礼を言ってくれたのです。
「パワハラ女をクビにしろ!」
翌朝、出社して間もなくのことです。私の向かいの席に座る部長の電話が鳴りました。
受話器を取った部長は数秒後には表情を変え、私を手招きします。不思議に思って近づくと、受話器の向こうから女性の怒鳴り声が聞こえてきました。
「パワハラ女を今すぐクビにしなさい!」
部長が「どちら様でしょうか」と尋ねても、相手は名前を名乗ろうとしません。それどころか、「うちの息子が、その女に毎日いじめられている!」「精神的に追い詰められているのよ!」と、一方的にまくし立てるばかりでした。
私は何が起きているのかわからず戸惑っていると、騒ぎに気づいたA男が青ざめた表情で頭を下げました。
「……たぶん、その電話、母です。申し訳ありません」
A男が電話を代わると、受話器の向こうからは「あなた、今すぐ会社を辞めなさい!」という怒鳴り声が聞こえてきました。しかしA男は落ち着いた様子で、「先輩は何も悪くない。会社に迷惑をかけないで」とだけ伝え、静かに電話を切ったのです。
その後A男は、「ご迷惑をおかけして、本当に申し訳ありません」ともう一度頭を下げると、そのまま席へ戻って仕事を始めました。
正体判明も、さらに大暴走!?
昼前、受付から「A男さんを訪ねて女性が来ています」と内線が入りました。嫌な予感がした次の瞬間、オフィスのドアが勢いよく開き、一人の女性がずかずかと入ってきたのです。
先ほど電話をかけてきたA男の母親でした。
母親はA男の姿を見つけると、私とA男を交互に見比べました。そして、「あなたね!」と私を指さし、「うちの息子をいじめているパワハラ女は!」と大声を上げたのです。
部長が止めに入ってもまったく聞く耳を持たず、「あなたが息子をおかしくしたの!」「いい年して、若い男をたぶらかすなんて恥ずかしくないの!?」と、次々と言いがかりをつけ始めたのです。
私は仕事以外でA男と話したことはほとんどありません。それでも母親は、「息子が毎日あなたの話ばかりする」「あなたに騙されている」と決めつけ、まったく話になりませんでした。
あとからA男に聞くと、前日の夜、母親に会社での出来事を聞かれ、「仕事でミスをしたけれど、教育係の先輩が丁寧に教えてくれた」と話したそうです。
さらに、「期待に応えられるよう頑張りたい」と何気なく話したことで、母親は「パワハラで支配されている」「その女に夢中になっている」と思い込んでしまったのでした。
息子が選んだ人生
周囲の視線が集まる中、A男は意を決したように顔を上げました。
「母さん、もういい加減にして」
そして、「先輩は仕事を教えてくれただけだよ。勘違いしているのは母さんだ」と、はっきり伝えました。ところが母親は、「ほら!やっぱりたぶらかされてるじゃない!」とさらに興奮します。
A男は母親の言葉をさえぎるように、静かに言いました。
「会社も辞めない。これ以上、僕の人生に口を出さないで」
その言葉を聞いた母親は口を開きましたが、何も言い返せず立ち尽くすばかりでした。すると部長が、「これ以上、社員への迷惑行為が続くようであれば、会社として対応させていただきます」と静かに伝えたのです。
母親は悔しそうな表情を浮かべながらも、それ以上騒ぐことはできず、そのまま会社を後にしました。
それからしばらくして、A男は少しずつ自分の意思で行動できるようになり、以前のようにおどおどした様子はなくなりました。今では積極的に意見を伝えられるようになり、部署でも頼られる存在へと成長しています。
あの騒動には驚かされましたが、自分の力で前へ進んでいくA男の姿を見て、私も安心しました。人は誰かに決めつけられるのではなく、自分で考え、自分で選ぶことが大切なのだと改めて実感した出来事です。
※本記事は、実際の体験談をもとに作成しています。取材対象者の個人が特定されないよう固有名詞などに変更を加えながら構成しています。
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