実家の旅館を見た彼女は…
A子とは数年付き合い、お互いに結婚を意識するようになっていました。
僕は以前から、実家が旅館を営んでいることや、いずれ地元へ戻って家業を継ぐつもりであることも話していました。するとある日、A子から「一度、実家の旅館を見てみたい」と言われたのです。
そこで両親への紹介も兼ねて、A子と一緒に実家へ向かうことにしました。ところが……旅館の前に到着した途端、A子の表情が一変。
「え……ここが実家なの?」
実家の旅館は決して豪華ではありません。建物もかなり古いものの、長年大切に手入れをしながら営業を続けてきました。
僕が、祖父の代から続いていることや、昔から通ってくださるお客様もいることを説明しようとすると、A子は突然スマホを取り出しました。
「ごめん、ちょっと電話してくる」
少し離れた場所へ行ったA子は、しばらくすると慌てた様子で戻ってきました。
「急用ができちゃった。今すぐ帰らないと」
僕が駅まで送ろうかと声をかけても、「大丈夫だから」と断り、A子は旅館の中へ入ることもなく帰ってしまったのです。
彼女から突然の電話
何か大変なことが起きたのかと心配になり、その日の夜に「大丈夫?」と連絡しました。しかし返事はないまま数日が過ぎたのです。
そんなある日、突然A子から電話がかかってきました。僕は何かあったのではないかと慌てて電話に出ましたが、A子はしばらく黙ったまま。やがて、小さな声でこう言いました。
「……別れたい」
突然の言葉に驚き、理由を尋ねると、A子は僕の実家の旅館について話し始めました。
「もっとちゃんとした旅館だと思ってた。あんな古い旅館を継ぐなんて思わなかったし、私、将来苦労するのは嫌なの」
その言葉を聞いて、僕はあの日、A子が突然帰った理由をようやく理解しました。
旅館の外観だけで将来まで決めつけられたことはショックでした。それでも、すでにA子の気持ちは固まっているようだったため、僕は別れを受け入れました。
数年後、高級ホテルでまさかの再会
A子と別れてほどなくして、僕は予定していたとおり地元へ戻り、家業を継ぎました。
祖父が始めた小さな旅館を基盤に、父の代から少しずつ宿泊事業を広げていました。僕もその流れを引き継ぎ、実家の旅館を大切にしながら、いくつかの宿泊施設の経営に携わるようになったのです。
それから数年後。ある日、経営するホテルのひとつを訪れました。いくつかある施設の中でも、特にグレードの高いホテルです。
ロビーを歩いていると、偶然A子と再会しました。
「こんなところで何してるの?」と目を丸くするA子に、僕が「仕事だよ」と答えると、どこか納得したような表情を浮かべました。
「実家の旅館、やっぱりうまくいかなかったんだ?」
あのときと同じように、また勝手に決めつけるA子に少しうんざりしながら、「旅館は今も続いている」と伝えました。
そのとき、スーツ姿の女性がこちらへやってきました。胸元のネームプレートには「支配人」の文字。A子もそれに気づいたようで、僕に丁寧に頭を下げる女性を不思議そうに見つめていました。
「お話し中のところ失礼いたします。社長、少し急ぎで確認したいことがあるのですが、今よろしいでしょうか?」
A子は「……社長?」と驚いたようにつぶやき、僕と支配人を見比べました。
「ここも、うちの会社が経営しているホテルのひとつだよ」
僕がそう伝えると、A子は言葉を失いました。そして、「そんな話は聞いていない」と戸惑った様子を見せたのです。
僕は、以前A子を実家へ連れていった日のことを思い出しました。旅館の中にも入らず、何も知ろうとしないまま帰ったのはA子自身です。そのことを伝えると、A子は何も言い返しませんでした。
見た目だけではわからないもの
現在、僕には結婚を約束している女性がいます。家業を継いだばかりで仕事が大変だった時期も、ずっとそばで支えてくれた人です。
彼女は実家の旅館にも何度も来ており、「この雰囲気、私は好きだよ」と言ってくれました。その言葉を聞いたとき、とてもうれしかったのを覚えています。
A子との別れは当時こそつらいものでしたが、結婚する前に価値観の違いに気づけたのはよかったのかもしれません。
建物も人も、外から見ただけですべてがわかるわけではありません。これからも祖父の代から続く旅館を大切にしながら、自分なりの形で家業を守っていきたいと思っています。
※本記事は、実際の体験談をもとに作成しています。取材対象者の個人が特定されないよう固有名詞などに変更を加えながら構成しています。
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