「客は気付かない」仕込みを全否定
私は30歳のころ、高級料理店A店で料理人として働いていました。主に担当していたのは、スープやソース作り、魚や肉の下処理などの仕込みです。
仕込みはお客さまから直接見える仕事ではありません。それでも私は、時間をかけてスープのコクとうま味を引き出すなど、仕込みこそ料理の味を支える土台だと考えていました。
そんな店に、新しい店長としてK田さんがやって来ました。K田さんが重視していたのは「効率」と「利益」。無駄な時間や経費を減らすという方針でした。
ある日、スープに使う野菜や骨を見たK田さんから、「どうせ最後は取り除くのだから、こんなに使わなくていい」と言われました。私がコクやうま味を出すために必要だと説明すると、
「客はそんな細かい違いまで気付かない」
と言われたのです。
さらに後日、市販のスープベースを渡され、今後はこれを使えば安く早く作れると言われました。私はA店の味が変わってしまうと訴えましたが、K田さんの考えは変わりません。
やがて仕込みに時間をかける私を「無能」とまで言い、
「そんなに俺の方針が気に入らないなら、辞めればいい」
と言われました。
いつも穏やかなフロアスタッフのE子さんは、「S本さんは無能なんかじゃありません!」とかばってくれました。ほかのスタッフも声を上げてくれましたが、K田さんは「お前たちまで辞めたいのか」と一喝。
みんなをこれ以上巻き込みたくないと思った私は、
「……わかりました。辞めます」
と答えました。K田さんも受け入れ、その日を最後にA店を退職しました。
退職翌日、味の違いに常連客が気付いた
翌日、店では朝から混乱が起きていたそうです。それまでスープを中心になって仕込んでいたのは私で、細かな段取りや仕込み量の判断も私に集中していました。
私がいなくなったことで準備がうまく回らず、K田さんは市販のスープベースやソースを使うよう指示。さらに、魚や肉の下処理にも影響が出たそうです。
料理を提供すると、常連のお客さまから、
「今日のスープ、いつもと味が違うな」
という声が上がりました。
さらに常連のT中さんからは、ステーキが硬いとの指摘が。焼き直しても状態は変わらず、E子さんはK田さんに対応を求めました。
しかしK田さんは、お客さま側の感じ方に問題があるのではないかというような反応を示し、謝罪には行かなかったそうです。その一方で、別のお客さまには丁寧にあいさつをしていました。
その様子を見たT中さんは、
「このお店、気に入っていたんですけどね。残念です。もう来ません」
と言って帰っていったといいます。
その夜、E子さんが私の家を訪れ、一日に起きたことを教えてくれました。
話を聞いて驚く一方、私自身にも反省するところがありました。仕事へのこだわりが強いあまり、重要な仕込みを自分で抱え込み過ぎていたのです。もっと周囲に教え、任せていれば、私ひとりがいなくなっただけでここまで混乱しなかったのかもしれないと思いました。
常連客から「料理長を」と思わぬ誘い
そのときE子さんから、T中さんが私と話をしたがっていると聞き、翌日会うことになりました。
そこで初めて知ったのですが、T中さんは複数の飲食店を経営する会社の代表でした。A店には以前から何度も通い、スープやソース、肉や魚の丁寧な仕込みに注目していたそうです。
そして私に、
「新しくオープンするレストランで、料理長をやってもらえませんか?」
と声をかけてくれました。
うれしい話でしたが、私は迷いました。料理長になれば、自分の料理だけでなく、厨房全体を見てスタッフを育てる責任があります。
父もかつて小さな洋食店を営んでいましたが、何でもひとりで抱え込み、体を壊して店を閉めました。その姿を見ていたため、自分が責任者になることに不安があったのです。
するとE子さんから、「S本さんはひとりじゃありません」と言われました。自分もフロアから支えるし、経営についてはT中さんを頼れる。すべて自分で背負わなくていいと言ってくれたのです。
私は数日考えた末、料理長の話を受けました。E子さんもA店を退職し、新しい店で働くことになりました。
新店の準備では、私もそれまでの働き方を変えました。自分で何でもやるのではなく、スタッフに仕込み方を教え、任せるようにしたのです。
半年後、新しいレストランがオープン。以前の店のお客さまから「あのスープをまた食べたかった」と言ってもらえることもあり、店は次第に多くのお客さまに利用していただけるようになりました。
半年後、元店長から告げられたこと
新店のオープンからさらに半年後、K田さんが突然訪ねてきました。
そして、
「A店は閉店した」
と告げられました。
料理への不満が増えて常連客が離れ、スタッフも次々に辞めていったそうです。
K田さんは、仕込みを軽く見ていたことや、私の仕事が店の味を支えていたことに気付けなかったと謝りました。
私はK田さんの話を聞きながら、以前の自分も仕事を抱え込み過ぎていたことを伝えました。
必要なところには時間をかける。でも、それを誰かひとりだけに背負わせない。新しい店で働き始めて、私はその両方が大切なのだと感じるようになりました。
まとめ
退職をきっかけに、丁寧な仕事を守ることと、効率よく働くことは両立できるのだと気付きました。必要な手間は惜しまず、それをひとりで抱え込まない。仲間を信じて任せることも、良い料理や店を作るために大切なのだと感じた経験です。
※本記事は、実際の体験談をもとに作成しています。取材対象者の個人が特定されないよう固有名詞などに変更を加えながら構成しています。
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