65歳で新しい職場へ
私は長年、旅行会社で働いてきました。店頭で旅行の相談を受けたり、電話で宿泊施設や交通機関を手配したりと、30年以上にわたってお客さまと接する仕事をしてきました。
定年を迎えて退職した当初は、「これからはゆっくり過ごそう」と思っていたのですが、数カ月たつと少し物足りなさを感じるようになりました。そこで、週に数日ほど働ける仕事を探し、ホテルのフロントスタッフの求人に応募しました。採用され、65歳で新しい職場に入ることになったのです。
もちろん、接客経験があるとはいえ、ホテルで働くのは初めてです。特に戸惑ったのが、予約やチェックインに使うシステムでした。画面にはさまざまな項目があり、宿泊プランによって確認する内容も変わります。私はメモを取りながら、一つずつ操作を覚えていきました。
ある日、A子さんは少し笑いながら私にこう言いました。
「60代で新人って、覚えるの大変そうですね。20代の私でさえ最初は苦労したのに」
少し引っかかりましたが、私は「新しいことを覚えるのはいくつになっても大変ね」とだけ返しました。
その後も、私が操作に時間をかけていると、「わからなかったら、若い人に任せたほうが早いですよ」と言われることがありました。
私は新人ですし、実際にA子さんから教えてもらうこともたくさんあります。そのため、言い返すことはせず、まずは仕事を覚えることに集中していました。
部屋割りをめぐり困った宿泊客
働き始めてしばらくしたころ、フロントが混み合う時間帯に、1人の女性客が険しい表情でやって来ました。対応したのはA子さんです。
女性は家族旅行で複数の部屋を予約しており、事前に「高齢の母親がいるため、できるだけ近い部屋にしてほしい」と伝えていたそうです。しかし、チェックイン時に確認すると、案内された部屋は階まで分かれていました。
「電話でもお願いしたんです。母をひとりにするのが心配だから、なるべく近い部屋にしてくださいって」
女性がそう訴えると、A子さんは予約情報を確認しながら、「申し訳ございません。当ホテルでは、お部屋の位置について事前のご希望は承っていますが、確約はしておりません」と答えました。
しかし女性は、さらに表情を険しくし、「そんなことはわかっています。でも、まず変更できないか確認してくれてもいいんじゃないですか?」と言いました。A子さんは慌てた様子で、「ですが、本日はかなり予約が入っていますので……」と答えました。
すると女性の声が大きくなりました。
「だから、できるかどうかを調べてって言ってるんです!」
「あなたじゃ話にならないから、別の人を今すぐに呼んで!」
周囲のお客さまもこちらを見るほどでした。
A子さんは何とか説明しようとしていましたが、女性は納得できない様子でした。上司は別件ですぐには手が離せず、私が前職で長く接客業務を経験していたことを知っていたため、「A子さんと一緒に対応してもらえますか」と声をかけてきました。
私はA子さんの隣に立ち、まず女性に頭を下げ、「お待たせして申し訳ございません」と言いました。そして、女性が話していた内容を踏まえ、「一番ご心配なのは、お母さまと離れたお部屋になることですよね?」と尋ねました。
女性は「そうなんです」と答え、母親のことが心配なのだと改めて話してくれました。
長年の接客経験が役立った瞬間
私は女性に、「ご希望通りにできるとはお約束できませんが、今の予約状況で調整できる方法がないか確認しますね」と伝えました。
以前の旅行会社でも、家族旅行や団体旅行では、予定変更や部屋割りについて相談を受けることがよくありました。
長く接客をしてきて感じていたのは、お客さまが強い口調になっているときほど、言葉だけでなく「何に困っているのか」を丁寧に聞き取ることが大切だということです。
今回の女性も、「希望通りの部屋ではなかった」ということ以上に、離れた場所にいる母親に何かあったらどうしようという不安を抱えているように感じました。
私は予約状況を確認し、別件の対応を終えた上司にも相談しました。上司と空室状況やほかの予約への影響を確認すると、同じ部屋タイプのまま、2室を同じ階の近い位置に変更できることがわかりました。
「隣同士ではないのですが、同じ階の近いお部屋でしたらご案内できそうです」
そう伝えると、女性の表情がやわらぎました。
「それなら十分です。母のことが心配だったので……。ちゃんと話を聞いてくださってありがとうございます」
先ほどまでの険しい様子はなくなっていました。私もほっとしながら、上司と確認したうえで部屋の案内を進めました。
新人でも、接客経験は30年以上
女性が客室へ向かった後、A子さんが私のところへやって来て「さっきのお客さま、最後は落ち着いていましたね。どういうところを意識して話したんですか?」と尋ねてきました。
私は、「部屋が離れていることより、お母さまのことが心配だったんだと思うの。だから、まず何に困っているのか聞いてみただけよ」と答えました。
すると、近くにいた上司が口を開きました。
「A子さん。このホテルでは新人ですけど、接客の新人ではありませんよ」
A子さんは「え?」と驚いた様子です。上司は「以前も長く、お客さまと接する仕事をされていたんですよ」と続けました。
A子さんは目を丸くしました。私は少し笑って、「でも、ホテルでの接客については本当に新人だから。そこはこれからも教えてね」と伝えました。
するとA子さんは気まずそうに、「すみません。システムの操作に慣れていないのを見て、勝手に決めつけていました」と謝ってくれました。
私は、「新しい職場では、私も知らないことばかりだから。お互いに得意なことを教え合えたらいいね」と返しました。
まとめ
それ以降、A子さんから年齢を理由に仕事の覚え方を決めつけるようなことを言われることはなくなりました。私がシステム操作でわからないことがあればA子さんに教えてもらい、逆に、お客さまへの対応に迷う場面では、「こういうとき、最初に何を聞けばいいですか?」と相談されることも増えました。
65歳で新しい仕事を始めた私は、このホテルでは間違いなく新人です。けれど、それまで30年以上積み重ねてきた経験まで、ゼロになったわけではありません。
今回の出来事を通して、新しいことを学ぶ一方で、これまで身につけてきた経験も別の形で生かせるのだと改めて感じました。
※本記事は、実際の体験談をもとに作成しています。取材対象者の個人が特定されないよう固有名詞などに変更を加えながら構成しています。
※AI生成画像を使用しています
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