軍師クイズ:徳川家康の軍師は誰?
織田信長には竹中半兵衛・黒田官兵衛、武田信玄には山本勘助、上杉謙信には宇佐美定行(軍記物)など、戦国武将には常に知恵袋となる軍師の存在が語られます。
では、徳川家康は誰を軍師として天下統一を果たしたのでしょうか?
「家康の軍師」と聞いて多くの人が連想する、次のうちの人物で、歴史上、家康の軍師としての役割を担ったとされる人物は誰でしょうか?

① 本多忠勝(ほんだ ただかつ)
② 本多正信(ほんだ まさのぶ)
③ 本多正純(ほんだ まさずみ)
正解は


②の本多正信(ほんだ まさのぶ)でした!
徳川家康には、織田信長の竹中半兵衛や黒田官兵衛のように、戦場での作戦指揮に特化した専任の「軍師」は存在しなかったとされています。
しかし、本多正信こそが、家康の「知恵袋」「参謀」として最も重要な役割を果たした人物です。
豆知識:正信が「軍師」と呼ばれる理由
本多正信が家康の「軍師」と呼ばれるのは、彼が「戦場での采配」よりも、「外交、調略(ちょうりゃく)、政治工作」といった裏の仕事を担当したからです。
戦略家
正信は、戦国時代後半から江戸時代にかけて、敵対勢力との交渉や情報収集、根回しといった、「天下統一」に必須な知略で家康を支えました。
出世のきっかけ
正信は、家康の家臣でありながら、かつて一向一揆(いっこういっき)に参加して家康に反旗を翻した過去があります。その経験から一度出奔しますが、後に呼び戻され、その非凡な才能で家康の信任を得ました。
家康は、「正信なくして天下統一なし」と言われるほど、彼を重用しました。
豆知識:本多忠勝と本多正信の関係
同じ「本多」姓を持っていますが、直接的な血縁関係は薄いとされています。
同じ「本多」姓でも、日本の武家社会では同姓の別家系が数多く存在します。
忠勝と正信は、その家系が異なるため、一族の人間として日常的に交流があったり、近い血縁があったりしたわけではありません。
むしろ、武断派の忠勝と文治派の正信は、意見が対立することも多かったことが知られています。家康は、この性質の異なる二人の本多をうまく使い分けることで、天下統一を成し遂げました。
豆知識:軍師なのに「関ヶ原」に遅刻した!?
家康の天下が決まった「関ヶ原の戦い」。
実は、軍師であるはずの本多正信は、この歴史的な決戦の場にいなかった(遅刻した)ことをご存知でしょうか?
秀忠の補佐として
正信は、家康の息子である徳川秀忠(後の2代将軍)の軍に、補佐役として同行していました。
しかし、真田昌幸・信繁(幸村)親子が守る上田城の攻略に手間取り、あろうことか関ヶ原の本戦に間に合わなかったのです。
家康の怒りと正信の役割
激怒した家康に対し、正信は秀忠を必死にかばい、とりなしたとされています。
彼が「戦場の軍師」ではなく「政治の参謀」であったことを象徴するように、正信の真価が発揮されたのは、戦いが終わった後の「幕府の仕組み作り」や「朝廷との交渉」といった政治の舞台でした。
りんごのイラスト/タワシ