夫の遺言を胸に、私は働き続けた
夫は、A子が小学生のころに病気で他界しました。最期まで穏やかだった夫は、繰り返しこう言っていました。
「A子のことをちゃんと見ていてほしい」
「俺がいなくなっても、困らないように頼む」
私はその言葉を胸に刻み、「絶対に不自由な思いはさせない」と誓いました。母親ひとりになっても、経済的に苦労だけはさせたくない。そう決意し、印刷会社でデザイナーとして働きながら、昇進を目指しました。
残業や休日出勤も積極的に引き受け、「私が働けば働くほど、A子の将来は安定する」と信じて疑いませんでした。
習い事や塾、私立進学、部活動の遠征費——できる限りの環境を整えました。けれど今振り返ると、私は「与えること」に必死で、A子の気持ちに寄り添う余裕を失っていたのだと思います。
すれ違いは、静かに深まっていた
忙しい日々の中で、A子と向き合う時間は少しずつ減っていきました。
「今度の試合、見に来られないかな?」とA子に言われても、私は「その日は仕事があって……ごめんね」と断ることがほとんどでした。
「あなたならできるよ」「期待しているからね」と励ましのつもりでかけた言葉も、きっと彼女には空虚に響いていたのでしょう。やがて門限を守らないことが増え、私は強い口調で注意するようになりました。
ある日、A子は涙ながらに「連絡しても意味ないじゃん。私のほうが、お母さんを待ってるんだよ」と言いました。その言葉に胸が揺れたはずなのに、私は「あなたのためを思って言っているの」と正論で返してしまいました。
進路の話し合いでも意見は食い違い、「大学に進学したら、この家には帰らない」と言われたとき、私はうまく言葉を返せませんでした。
高校卒業の日、A子は私に詳細を伝えないまま家を出ました。それが、私たちの事実上の別れでした。
偶然の再会で知った、娘の本音
それから3年。連絡をしても返信はなく、私もどう向き合えばいいのかわからないまま時間だけが過ぎました。
ある日、都内での打ち合わせ帰りに立ち寄ったカフェのテラス席から、公園が見えました。そこで私は、見覚えのあるA子の後ろ姿を見つけたのです。
A子は、転んで泣いている小さな女の子に駆け寄り、「大丈夫だよ」と優しく声をかけていました。その姿は、私の知らない、誰かの支えになっている大人の女性でした。
やがて同僚らしき女性と合流し、会話の中でA子が大学に通いながら子どもと関わる仕事をしていることがわかりました。そして、彼女はぽつりと語り始めました。
「お母さん、ずっと働き詰めで……。不自由はなかったけど、寂しかった」
「『卒業式にも来るな』って言ったままなんです」
「本当は、ちゃんと謝りたいのに……」
その言葉を聞いた瞬間、私はもう物陰に隠れていられませんでした。私は思わずA子のもとに駆け寄り、声をかけました。
「A子、ごめんなさい。寂しい思いをさせていたね」
突然の再会に驚きながらも、A子は泣きながら「お母さん、私こそごめん」と言いました。3年間の距離は、一瞬で消えたわけではありません。けれど、お互いが素直な気持ちを口にできたことで、ようやく同じ場所に立てた気がしました。
「これからは連絡する。ちゃんと話したい」と言ってくれたA子の表情は、以前よりずっと大人びて見えました。
これからは、隣に立てる母でいたい
先日、A子から「来月、大学の卒業式だから来てほしい」というメッセージが届きました。あの日、高校卒業式には立ち会えませんでした。でも今度は、胸を張って娘の姿を見届けたいと思います。
時間は戻りません。けれど、これからの時間は選べます。
私はようやく気付きました。守るとは、与えることだけではなく、そばにいることなのだと。これからは、母として「支配する人」ではなく、「隣に立てる人」でありたい。そう心から願っています。
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経済的に守ろうと必死だった母と、心のそばにいてほしかった娘。互いを思う気持ちがあったからこそ、すれ違いはより深くなってしまったのかもしれません。親子関係に正解はありませんが、歩み寄る勇気があれば、やり直すことはできるのだと感じさせられるのではないでしょうか。
※本記事は、実際の体験談をもとに作成しています。取材対象者の個人が特定されないよう固有名詞などに変更を加えながら構成しています。
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