夫は医者で、私はIT企業でバリバリ働くキャリア重視。お互いに忙しくしてはいましたが、それは結婚前からわかりきっていたことです。おしどり夫婦とは言えないものの、短くても一緒の時間をつくろうと私は努めてきました。
しかし、夫は私とはまったく異なることを考えていたようです。私が一緒に何かしようと誘っても、「気分じゃない」と断られることが増え……私たち夫婦が一緒に過ごす時間は週に数時間もなくなっていました。
そしてある日、夫は荷物をまとめて出て行ったのです。リビングのテーブルの上に、記入済みの離婚届と、小銭まじりのお金を残して……。
突然の裏切り
何も食べる気になれず、リビングのソファからただ離婚届と残されたお金を眺めているだけ。夫に電話をかけても出ず、私はこれからどうしようかと途方に暮れていました。
そんなときに、学生時代の同級生から連絡があったのです。
「やっほ~! 久しぶり!」
社会人になってからも、定期的に食事をしていた相手でした。私が家族以外で一番信頼している同性の友人です。
「報告があって連絡したの!」
私の気分とは真逆な、彼女のうれしそうな声。私はさとられないように気をつけながら、続きを促しました。
「あんたの旦那さんと、結婚することになりました!」
一瞬、時が止まったかのようでした。彼女によると、私の夫と彼女は今、新幹線で遠くに辿り着いたというのです。
「ど、どうして……そんなこと」
うまく息ができない私を嘲笑うかのように、彼女は衝撃的な理由を続けました。
「だって、医者の妻になれば一生安泰じゃない」「あんたから聞いたときに、『この人だ!』ってピンと来たのよね~」「それに、彼も『仕事仕事で家のことをやってくれない』ってあんたに不満だったみたいだし」
「……それで、私の夫を略奪したのね」と、怒りを押し殺しながら言うと、彼女は「こわ~い」と言ってケラケラ笑いました。
「ちゃんと慰謝料も置いていったでしょ? 彼はいいって言ってくれたんだけど、さすがに申し訳ないなぁって思って、私の手持ちの全財産置いていってあげたんだよ!」
彼女は3万円にも満たないこのお金が、私の結婚生活の値段だというのです。静かに吐き気が込み上げてきました。
結局、私は離婚に同意。夫が置いていった離婚届を提出したのでした。
心の傷を癒すことに費やした5年間
それからしばらく、周囲からは腫れ物ののように扱われました。最初は「心配」してくれていた人も、次第に「好奇心」のほうが勝ったのか、あれやこれやと聞いてきます。
本当に自分のことを心配してくれている人は誰なのか、私が信頼をおける人は誰なのか……そういう判断基準も、このころに学んだことのひとつです。
5年間、下を向かず、前だけを向くことに専念しました。それ以外に選択肢がなかったといえます。気づけば、あの2人のことはほとんど考えない日々になっていました。
親しいと思っていた人たちが、私の不幸を噂話のネタにしていたのです。そういう現実も、あのころに学んだことのひとつです。
それでも私は、前を向くことにしました。それ以外に選択肢がなかったとも言えます。彼女のことは、気づけばほとんど考えない日々になっていました。
その日、私は用事を済ませた帰りに、駅前を歩いていました。
「あれ? もしかして……」
声をかけてきたのは、例の同級生でした。元夫の転職の関係で、こちらに帰ってきたというのです。
5年ぶりに見る顔でしたが、若々しく、服もかばんも、細かな部分まで手入れが行き届いているのはよくわかりました。彼女は「まさかこんなところで」と笑い、私の姿を上から下まで眺めながら、勝ち誇ったような表情を浮かべました。
「結婚して、高級住宅地に引っ越したの!」「ランチは毎日高級レストランで、エステは週3回。ブランドバッグは新作が出るたびに買いに行ってるのよね」
さんざん自慢話を並べ立てたあと、彼女は私を憐れむかのように、こう言いました。
「あんた、今何してるの? 仕事は続けてんの?」
「……まぁ、私が医者の旦那奪っちゃったから大変だろうけど、頑張ってね!」
「大変なのは……どっちかしら」
「は?」
彼女の見下したような笑顔が、一瞬だけ歪んだのを私は見逃しませんでした。
「……近いうちに、こちらからまた連絡するわ」と言うと、彼女は笑顔を消し、「は? 何の話?」と聞いてきました。
「わかってるんじゃないの」と冷たく言って、私は会話を切り上げ、そこを足早に立ち去りました。振り向くと、駅前の雑踏の中で、彼女だけが取り残されたような顔をしていました。
真っ当な幸せ
数日後――。
私はいつもの仕事として、ある案件の確認を進めていました。書類の束の中に、見覚えのある名字がありました。
管理側として必要だからと電話を入れると……、電話口の空気が一瞬で固まったのがわかりました。
「な、なんであんたが……」
電話の相手は、例の同級生でした。
「先日はどうも。今回はプライベートじゃなくて、仕事の話よ。支払いの件で確認があってね。不動産を管理する立場として、家賃の滞納は見逃せないもの」
そう言うと、彼女はしばらく黙り込んでしまいました。
実は、私は傷心の中で出会った男性と再婚していたのです。彼は、地元では大きな不動産会社を経営している、真面目で堅実な人。私の過去も知ったうえで、結婚を申し込んでくれたのです。
「今は彼の手伝いが私の仕事なの。高級レストランにエステ、ブランドバッグ……それだけできる余裕があるなら、家賃も当然支払えるわよね?」
彼女は一瞬息を呑み、言い訳を並べ始めました。
「実は、生活が厳しくて……」「夫の給料が入ったら、すぐに支払うから……」
その声には、屈辱が滲んでいました。見下していた私に、余裕があるふりをしていたことがバレたのです。さぞ悔しかったでしょう。
「支払いについては、書面通りに。支払えないなら、退去してもらいます」
事務的にそう伝えると、彼女は「お願いだから! もう少しだけ! もう少しだけ待って!」と懇願してきました。
これ以上彼女の言い訳を聞いても仕方がないと思った私は、「近日中に振込をお願いします」とだけ言って、電話を切りました。ふぅと息をついたあと、「……かわいそうなのは、どっちかしらね」とひとりごとが漏れました。
その後――。
元夫からも直接連絡がありました。「妻の散財が止まらない、貯金も底をつきた」と嘆きながら、「お前はしっかりしてた、今からでももう1回やり直せないか」と言ってきたのです。
「あなたとプライベートなお話をするつもりはありませんし、私は今の夫と添い遂げるつもりです。あなたは私を捨ててまで選んだ彼女とどうぞお幸せに」「家賃は早急にお支払いくださいね」
事務的な対応を続けていると、元夫は何も言えなくなったのか、一方的に電話を切りました。
それからしばらくして、元夫の現在の職場に彼らの過去が知れ渡りました。同級生は「あんたが話したんでしょ!」と言ってきましたが、私は直接病院の人に話したわけではありません。借りにきてくれたお客さんや、大家さんたちにちらっと話しただけです。このあたりに住む人に、安心して暮らしてもらうために。
結局、元夫は職場にいられなくなり、売れるものをすべて売って滞納分を支払い、そのまま別の土地へ移ったと聞きました。
あの小銭まじりの「慰謝料」を見た夜から、もう5年以上が経ちます。あのころの私に、何かひとつだけ伝えられるとしたら。「あなたは、なにも間違っていなかった」という言葉だと思います。
裏切られた人間は、放っておいても勝手に追い詰められます。実際に、華やかに見えた彼女たちの生活は、実は滞納の上に成り立っていた。その現実を知ったとき、私は怒りよりも先に、妙な納得感がありました。見せかけは、いつか必ず剥がれる。地に足をつけて生きていれば、焦ることなど何もないのだと。
元夫たちの今の生活がどうなっているかは、もう知りません。知る必要もないと思っています。
今は、毎朝夫と一緒にコーヒーを飲む時間を楽しみにしています。仕事の話をして、笑って、次の物件の話をして、また笑う。それだけのことが、どれほど静かな幸福かと、しみじみ思います。
【取材時期:2026年1月】
※本記事は、ベビーカレンダーに寄せられた体験談をもとに作成しています。取材対象者の個人が特定されないよう固有名詞などに変更を加えながら構成しています。