きちんとした暮らしぶりのK山さん
K山さん宅への弁当配達が始まった当初は、配達のたびに緊張しました。がっしりとした体型で声も大きく、どこかしら威圧感のある方で、注意事項が多かったからです。「配達時間がいつもより10分も遅れるなら、連絡をしてくるべきだろう?」「車は家の前には停めないでくれ」「容器の素材があんまり好きじゃない」などなど。
ただ、お話してみると、どれも理由のあるご意見だったので、できることには対応し続けてきました。やがて信用を得ることができたのか、あれこれと言われることはなくなりました。弁当を渡し、受け取るというやりとりの中、K山さんはいつも快活に「おう、ありがとう!」と声をかけてくれるようになりました。
落ち着いてみると、K山さんの暮らしぶりはいたって几帳面で、庭はいつもきれいに掃かれ、花壇には小さな花が咲き、庭の隅には毎日1人分の洗濯物が丁寧に干されていました。月末には必ず、弁当の代金がお釣りの要らない状態で用意されていました。
1人の生活を淡々と過ごされており、強い方だなと感じました。私は、K山さんはこのまま10年ぐらいは変わらずに生活していけるのではないかなと思っていました。
衰えの兆しと珍しい頼み事
K山さんのご家族については、遠方に娘さんがいらっしゃるとちらりと話されていましたが、家でK山さん以外の人の姿を見かけたことはありませんでした。それでも、K山さんから弱音を聞くこともなければ、困っている様子を感じたこともありませんでした。
しかし、K山さんへの配達を始めて3年が過ぎたころ、変化に気付きました。玄関まで出てくる足取りが少しずつ遅くなっていたのです。壁に手をつきながら、どこか体も不安定な様子。そのころ、近所を散歩されている姿をよく見かけるようになりました。足の衰えを感じ、「頑張らなくては」と意識して歩かれていたのかもしれません。
そんなある日、「ちょっと、いいかな?」と声をかけられました。台所の吊り戸棚の中の物を下ろしてほしいと言うのです。一瞬驚き、迷いました。K山さんから弁当のこと以外で頼み事をされたのは初めてでした。配達員は原則として家に上がらないことになっていましたが、断ったらK山さんは困るのだろうな、と想像できました。
「わかりました。ちょっと待っててくださいね」K山さんに声をかけ、私は弁当店の店長に連絡を取りました。店長は、「簡単なことなら対応してあげて」と許可をくれました。私は、玄関を上がり、K山さんの案内を受けて台所へと進みました。
吊り戸棚に残されていたのは
台所はK山さんらしく、整っていました。食卓の上はこざっぱりと片付いていて、布巾はきれいに畳まれています。
目的の吊り戸棚はそれなりに高い位置にありましたが、幸い私の手が届く高さでした。戸棚の中にはガラス瓶が一つ残されていました。梅干しを漬けた瓶でした。「亡くなった妻が何年か前に漬けた梅干しでね、久しぶりに降ろそうと思いついたんだけど、この吊り戸棚、前はわしも届いてたのにどうしても届かなくてね……。どうも背丈が縮んでしまったらしい」とK山さんは困ったような表情を浮かべました。
K山さんから奥さんの話を聞いたのは初めてでしたし、今まで見たこともないK山さんの不安そうな表情に驚きました。ふらつきがちな体では椅子の上に立つこともできなかったのだろうと思いながら、梅干しの瓶を下ろして手渡しました。K山さんは大事そうに受け取り、そっとテーブルへ置いて、私に「本当にありがとう。助かった」とおっしゃいました。
ご自身の体に不安を感じたとき、「あの梅干しの瓶を片付けなくては……」と思い起こされたのか、ずっと心にしまっていた奥さまとの思い出に浸りたいという気持ちだったのか。確かめる機会はありませんでした。それからほどなくしてK山さんは入院され、弁当配達のリストからお名前は消えたからです。
まとめ
K山さんは、奥様を亡くされたあと、誇りを持ってきちんと暮らそうと努められてきたようでした。高齢者の1人暮らしで、しっかり者だから長く安定して暮らせるに違いないと思われた、そんなK山さんにも体の衰えを自覚するときが訪れました。不安や葛藤があったことでしょう。私は一介の弁当配達員で、できることは限られます。高齢者の気持ちに寄り添うよう心がけてはいますが、ご家族やご友人、あるいは介護サービス従事者など、他に心置きなく話せる存在があれば、もっとK山さんを支えることができたのではないか、と感じました。
※記事の内容は公開当時の情報であり、現在と異なる場合があります。記事の内容は個人の感想です。
著者:名和なりえ/50代女性・パート
※ベビーカレンダーが独自に実施したアンケートで集めた読者様の体験談をもとに記事化しています(回答時期:2026年2月)
※一部、AI生成画像を使用しています
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