料理長の突然の入院
この店は、料理長と二人三脚で立ち上げた大切な店です。しかしある日、その料理長が事故で入院。幸い命に別状はなかったものの、しばらく現場復帰は難しい状況になってしまいました。
突然のことで焦る僕に、知人が紹介してくれたのがA子さんでした。A子さんは有名ホテルのレストランで長年働いていた経験があり、落ち着いた仕事ぶりが印象的な人です。
料理長不在で店を続けることに不安はありましたが、その心配はすぐ消えました。忙しい時間帯でも周囲をよく見ながら動き、料理の評判も上々。
常連のお客様からも、「今日の料理、すごくおいしかった」「新しいシェフさん、感じいいね」と好評だったのです。
「会社の懇親会で貸し切りたい」!?
そんなある日、以前店内で、ちょっとした騒ぎを起こしたB男という客が再び来店しました。
その日も大声で騒いでいたため、僕は「少しお静かにお願いします」と注意。するとB男は不機嫌そうに、「感じ悪い店だな」と言い残して帰っていきました。
しかし数日後――そのB男から「会社の懇親会で貸し切りたい」と電話が入ったのです。40人規模の立食パーティーで、「社長も来るから、料理はいつもより豪華にしてほしい」と要望もありました。
週末の貸切は店にとって大きな仕事です。A子さんも数日前から仕込みを進め、僕は追加の食材発注や臨時スタッフの手配を進めていました。
前日の確認電話では、B男は「あーはいはい、今忙しいんで」と慌ただしい様子でした。少し引っかかるものはありましたが、僕は深く追及しませんでした。
当日…誰も来ない!?
しかし当日、開始時間になっても予約客は誰ひとり現れません。嫌な予感がして電話をかけましたがつながらず、数十分後、ようやくB男が出ました。
「あー、今日ちょっと無理になったから」
あまりにも軽い口調に、僕は耳を疑いました。
「え……?今さらですか?」
思わずそう返すと、B男は面倒くさそうに、「しょうがないだろ。店の予約くらいでガタガタ言うなよ」と言ったのです。さらに、キャンセル料の話をすると、「そんなの払うヤツいるの?」と笑いながら電話を切られてしまいました。
僕は頭が真っ白になりました。今回の貸切は当日精算予定で、その売上を見込んで仕入れやスタッフ手配を進めていました。
さらに店では、厨房設備の入れ替えをしたばかり。仕入れ代や設備費の支払いも重なっていたタイミングだったのです。
もちろん法的にキャンセル料を請求することは可能です。ですが、実際に支払われるまでには時間がかかるかもしれません。
「……さすがに今回はキツいかもしれない」
そう頭を抱える僕に、A子さんは落ち着いた様子で言いました。
「大丈夫です。まずは被害を減らしましょう」
冷静だったシェフ。その理由は…
A子さんはすぐに食材を確認し、「これは冷凍保存できます」「こちらはランチに回しましょう」と次々に整理を始めました。
さらに店のSNSで、“本日限定メニュー”を急きょ告知。近隣の飲食店で働く知人や常連のお客様にも連絡を入れ、「もし来られる方がいたらぜひ」と声をかけてくれたのです。
その結果、当日のうちに予想以上のお客様が来店。貸切予約ほどの売上には届かなかったものの、食材ロスはかなり減らすことができました。
後日、予約時の録音やメッセージ履歴をもとに、店側として正式にキャンセル料を請求。最終的にはB男側から謝罪があり、支払いにも応じてもらえました。
後からA子さんに、「どうしてあんなに冷静だったんですか?」と聞くと、彼女は苦笑しながらこう言いました。
「団体予約って、たまにこういうことがあるんです。だから“全部を当日勝負”にしないよう、仕込みも工夫してるんですよ」
僕は今回の件で、飲食店経営は料理だけでは成り立たないのだと痛感しました。どんなトラブルが起きても慌てず対応できる準備と経験。その大切さを、A子さんから学んだ気がします。
ちなみに、この出来事をきっかけにA子さんとの距離は少し縮まり、今では営業後に二人で食事へ行くこともあります。まだ恋愛関係と呼べるほどではありませんが、いつかきちんと気持ちを伝えられたらと思っています。
※本記事は、実際の体験談をもとに作成しています。取材対象者の個人が特定されないよう固有名詞などに変更を加えながら構成しています。
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