研修を兼ねた社員旅行で起きたこと
ある年、会社で社員旅行を兼ねた視察研修が、業務の一環としておこなわれることになりました。当時、私たちの部署では鉄道やバス、航空機などの座席を開発しており、近く予定されている高速バス向け座席の提案は、会社にとって重要な案件でした。
そこでA子社長は、社員旅行の移動時間を利用し、実際に運行している高速バスの座席に長時間座って、乗り心地や使い勝手、設計上気になる点などを各自で確認してほしいと事前に伝えていました。
当日、私が指定された待ち合わせ場所に着くと、そこにはA子社長と数人の社員がいました。しかし、参加予定だったB田たちの姿が見当たりません。「B田さんたちは?」とA子社長に言われ、同僚のB田へ電話をかけると、思いがけない答えが返ってきました。
「俺たちは飛行機で行くことにしたよ。そっちのほうが速いからな。差額は会社で処理してもらえればいいだろ。……あ、もうすぐドアが閉まるみたいだ。機内モードにするように案内されたから、もう切るぞ」
そう言って、B田は一方的に電話を切りました。どうやらB田たちは、自分たちの判断で移動手段まで変更してしまったようです。私がその内容を伝えると、A子社長はしばらく黙った後、「今回は高速バスの座席を実際に確認することも目的だと伝えていたはずなんだけど……」とため息をつきました。
移動手段の変更には事前の承認が必要だったため、B田たちが無断で購入した航空券代は経費精算の対象外となり、各自で負担することになりました。
さらにA子社長は、「今回の実地調査に参加していない以上、利用者目線を重視する案の主担当は任せられないわね」と話しました。
その言葉を聞き、私は改めて今回の移動が単なる旅行ではないことを実感しました。私は目的地までの間、座ったときの姿勢やクッションの硬さ、長時間座った後に感じる疲れなどを細かくメモしました。普段は設計する側ですが、その日は「利用する側」として座席を見ることを意識したのです。
現場を見た私と見なかった同僚
社員旅行後、大手バス会社から、新たに導入する長距離車両向けの座席について、複数のメーカーへ提案依頼が出されました。社内でも開発が本格的に始まり、複数の案を比較するため、開発メンバーは2つのチームに分かれて検討を進めることになりました。
社員旅行で高速バスの調査に参加しなかったB田は、A子社長の判断で今回の案件の主担当から外れ、代わって別の社員が主担当を務めることに。私はもう一方のチームの主担当を務めることになり、実際の乗車経験を生かした案を考えることになりました。
一方、B田も主担当からは外れたものの、プロジェクト自体には参加することが許可されました。これまで数多くの座席開発に携わってきた経験があるB田は、会議で積極的に意見を出していました。
B田が参加するチームでは、既存の座席の構造や部品をできるだけ生かし、コストや開発期間を抑える方向で検討が進められていました。もちろん効率も大切ですが、実際に高速バスへ長時間乗った私たちからすると、乗り心地や長時間利用した際の負担への配慮が十分ではないように感じました。
そこで私たちのチームは、社員旅行で得た気付きをもとに、長時間乗車したときの座り心地や快適性を重視した案を詰めていくことに。A子社長もプロジェクトの進捗を確認しながら、それぞれの案を比較して検討するよう促してくれました。
利用者目線を貫いた座席が高評価に
その後、私たちのチームは社内だけで考えるのではなく、長時間座る場面が多い施設などで使われる椅子についても調べ、座り心地や使いやすさに関する知見を集めることにしました。
すべてをそのまま取り入れられるわけではありません。それでも、「移動時間を少しでも快適に過ごせる座席にする」という方向性は徐々に固まっていきました。試作品を作っては社員に座ってもらい、意見を聞きながら調整を重ねました。座り心地だけでなく、製品として必要な安全性や強度についても確認していきました。
一方、B田は製造コストの削減を重視する意見を繰り返していました。ある日、B田から、「そんなに試作を繰り返していたら時間も費用もかかるだろ。提案期限もあるんだから、もっと効率を考えたほうがいい」と言われました。それでも私は、「もちろん期限やコストも意識しています。でも、少なくとも納得できるところまでは確認したいです」と答えました。
社内で検討を重ねた結果、社員旅行での実地調査をもとに私たちが中心となってまとめた案を、会社として提出することになりました。一方、B田が参加するチームで検討していた案は、従来品との差別化が十分ではないとして採用されませんでした。
後日、複数社の提案を比較したバス会社から、私たちの会社の案を採用するとの連絡が入りました。限られたスペースの中でも、長時間利用する人の快適性を考えている点を評価してもらえたそうです。担当者から「従来品から変更する意味が感じられる」と言われたときは、それまで何度も試作を重ねてきたことが報われた気がしました。
A子社長はB田に、「知識や経験があっても、現場を見なければ気付けないことはある。今回の高速バスの件で、それはわかったでしょう?」と伝えました。
B田は反論しませんでした。そしてその日を境に、以前なら自分のやり方を曲げなかったB田も、次第に現場での確認に参加するようになったのです。ある日、試作品を搭載した試験車両で乗車確認を終えたB田が、「実際に長時間座ってみないとわからないことって、思ったより多いな」とつぶやいたのを聞いたときは、少しだけ胸がすっとしました。
まとめ
今回の経験を通して、現場を見ることは、自分たちが当たり前だと思っていた設計を、利用者の立場から見直す機会にもなるのだと感じました。
数値やこれまでの経験は、設計をする上で欠かせません。しかし、それだけでは気付けない使い心地や不便さもあるのだと思います。B田がその後、実際の利用状況を自分の目で確かめるようになった姿を見て、経験に新しい視点を加えていくことの大切さも感じました。
これからも私は、図面の向こう側に実際に座る人がいることを忘れず、一つひとつの仕事に向き合っていきたいと思っています。
※本記事は、実際の体験談をもとに作成しています。取材対象者の個人が特定されないよう固有名詞などに変更を加えながら構成しています。
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