やさしい父と不機嫌な母
やさしかった父は土日も仕事であまり家にいなかったので、その分私たちと話す時間を大切にしてくれる人でした。夜遅い帰宅でも、兄2人と私は「おかえりなさい」と言うためだけにパジャマで出迎えたものです。母はひとりで朝から晩まで子ども3人を世話していたので、疲れていたのかあまり笑顔を見たことがありません。思い出すのは不機嫌に私たちを怒る母の声とため息でした。
その後、兄2人はすでに独立し、家には私と父母だけになりました。ある日久しぶりに父と会話していたら母の話題になり、そこで私の小さいころから抱いていた違和感の理由がわかった出来事がありました。
私が大人になってわかったこと
それは、「母は一番に大切にされないと不満な人なのだ」ということでした。それなら幼少時代の記憶に合点がいきます。私は思春期のころから母と口論や冷戦を繰り返していたので、就職を機に家を出ました。思えば小さいころから母とは相性が良くなかったのでしょう。
私が家を出てから13年後、父は突然亡くなりました。数年前に定年退職の記念に書いた日記のような遺書を残していました。そこには子どもたち3人が独立した喜びと母への感謝、遺産のすべてを母に託すので、私たちに了承を促す内容がつづられていました。
父がいなくなって崩れた家族
上の兄は海外出張が多かったため、次兄が母を引き取ろうとしましたが、母は「ひとりで暮らすほうが気がラク。孫たちと暮らすのは自分には無理だ」と言い切り、上の兄が用意したマンションに引っ越し、兄2人の会社でパートを始めました。
兄たちは身近に母がいるのですっかり安心し、仕事や自分たちの家庭と子どものことで頭がいっぱいに。母はそれがつまらないのか、ちょくちょく私に電話をしてくるようになりました。
その後、母は私に「娘がそばにいると心強い。こっちに帰ってきてお父さんが建てた家に住んでほしい」と何度も泣き言を言ってきました。家具も内装もそのまま残したいようです。私は母の近くに戻るのは嫌だったのですが、まずは食品や生活用品があふれ、手つかずで10年間ほったらかしの家の片付けに、新幹線を何度も使って通いました。
そして、再び住める状態になったころ、そこで母は初めて上の兄に話をしたらしく、突然兄から私に電話がありました。「母への仕送りはするのか?そこの家賃はいくら払うんだ? 母親の老後はお前がそこで見るのか?」と、まくしたてられたのです。それを母は、兄が自分のことを考えてくれている、と大満足している様子でした。私に言った泣き言なんてすっかりないかのように、兄には一切説明してなかったのです。
まとめ
その出来事があってから、私は母と上の兄との連絡を絶ちました。母の老後は上の兄が何とかするでしょう。そのときに次兄が巻き込まれないことを祈るばかりです。
※記事の内容は公開当時の情報であり、現在と異なる場合があります。記事の内容は個人の感想です。
文/新常 理勢
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