これは、長男が亡くなった時です。ハイハイは匍匐前進と後進。歩くのも8ヶ月でした。成長が早く、とてもデリケートで、紙おむつはあれて月齢の低い頃は布おむつのみ。離乳食も直ぐに嫌がり、普通食へ。そして、7ヶ月の時に乳児園で感染されてしまい、気管支喘息が悪化し、入院を一週間位。そこで、ベッドの上で、歩いたのです。でも、それが歩くのを見たのは最後でした。それから、二週間後、高熱が。毎日点滴で通院。でも、今回は何故か入院になったのは、救急で運んだ時です。最初。何か変とは思いながらも、病院行ってきたし。でも、変。を繰り返し、その日に限って遅かった夫を待ち、病院へ。即入院。酸素濃度が低いと、『酸素テント』と言われる物に。四方をビニールの様な物で囲われてベッドに横になってました。その時、一瞬だけ、発疹が。でも、直ぐに消えてしまいました。それは、2週間前に感染した、風疹との事。しかも、30年ぶりに流行し、しかも表に出ないタイプが。あれよあれよと、悪化してくんです。でも、病院だから安心という気持ちも、何処かその時有りました。次の日に大学病院へ救急搬送。医療チームが、10人くらい組まれました。ナースステーションの直ぐ脇。ナースやDr.の出入りは、すぐ横のナースステーションとの壁側の扉で繋がる部屋へ。そこでも、何処か大丈夫という気持ちが…様々な事を。我が子は、肺に麻しんウイルスが入り込んで、『間質性肺炎』を起こしてると。聞いた事も無い病名でした。そこで、ようやく、息子の置かれてる状況が、頭に。日に日に肺は、壊死していくんです。最初、新生児が使用すると効果が有ると、只月齢が月齢なので。と、手探り状態でした。それは、肺の中に一定期間石鹸の泡のような物を入れて、取り出すという処置を。それも効果が無くて。身体中に管を沢山つけられてて、脇で寝てましたが、熟睡は出来ず、夜中に看護師が来れば、目を覚ますという感じで。看護師の方に「お母さん、隣に一緒に寝ますか?」と言われた事も。あの時、一緒に寝れば良かったです。「管を踏みそうで」と、お断りしました。万が一、寝てる間に踏んでしまい、大変な事になったらと思うと、出来ませんでした。その後、ICUへ。そこは新生児用が無かったので、大人の方も一緒です。そこで『人工心肺』を。首から太い管を通して血液を、外に出して中に戻す様に。2枚のレコードの様な物で、巡回してました。我が子が好きだったのは、童謡ではなく、『ラブソング』。それを、CDでかけてもらい、オムツ1枚の姿でベッドに横になってました。浣腸してもらって出してもらった、数週間ぶりの便は、新生児の頃に見た『濃い緑色』でした。何時でも、面会は出来たのですが、何処か遠慮も有って、1日に数回だけでした。夫もしばらく、仕事を休んで、待合室で待ってる時も有りました。しかし、9ヶ月と1日目に、最後が。心臓が、限界を迎えて来て、その日は何回か注射をしてもらい、戻してもらうの繰り返しで「夫が、戻ってくるまで」ででいいですから、お願いします」やっと、引っ越しを終えて(静かな所で、子供と暮らそうとして、引っ越しました)、友人夫婦と戻って来て「最後だから」としか言えず」友人夫婦は「頑張れ」と何度も。夫も同じでした。でも、私は、それが可愛そうで、言われる度に、心拍数は戻るので。休ませてあげよう!「もういいよ。お疲れ様。ゆっくり、休んでね」と。その言葉の後に、息を引き取りました。涙は何故か、出なかったです。泣けなかったのです。先生達と看護師の方に「今まで、ありがとうございました」と言うのが背いっぱいでした。先生に「解剖をさせて下さい。治験に協力させてもらえますか」と、私は、出来るならそうしたかったのですが、未来に。この子の様な子供が、居なくなるように。でも、お断りしました。それは「お風呂大好きだったので、最後に、一緒にお風呂に入れてあげたいのですが、そちらをした後でも、お風呂入れますか?」と「それでしたら、少しだけ、肺の一部を、細く穴を開けて取り出しても良いですか?絆創膏の様な物を貼るので、それでしたら、お風呂入れられます」と言う事で、一部を。その後、天使のケアを受け手元に、とても軽く、帰り道、母乳を上げたくなり口を着けると、吸われてるような感覚に。お風呂は、新生児の様に浮いてて、首も座ってなくて、くまの棺桶に入れられました。その後、夫の涙で、泣けました。今では、考えるだけで思いだすだけで、涙が溢れ泣けるのに。その時は、それ一回しか泣けず、『笑顔でさよならをと思い。さよならしました』下産まれる度小さい頃は物凄く神経質になり、少しの事でも病院へ駆け込む。一度「涙を流して泣いてる時は、脱水じゃないから。みぞおちの辺りがポコポコして唇が青くなるから。口が乾いてたら、ガーゼを含ませてあげれば大丈夫」と言われる程。
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