軍師クイズ:黒田官兵衛は関ヶ原の戦いでどこにいた?
天才軍師、黒田官兵衛(如水)は、運命を決する天下分け目の関ヶ原の戦い(1600年)に、実は本戦の場(関ヶ原)にはいませんでした。
では、彼の息子・長政が東軍のために奮戦している間、隠居の身だった官兵衛(如水)は、一体どこで何をしていたでしょうか?
次のうち、官兵衛の驚くべき真の行動を当ててください。

① 大坂城に残り、豊臣秀頼の安全を確保していた
② 隠居の地で戦いの終結を待っていた
③ 九州で戦を開始していた
正解は……



③の九州で戦闘を開始していたでした!
黒田官兵衛(如水)は、天下分け目の大戦が起こっている最中、東軍(家康)にも西軍(三成)にもつかず、九州で独自の軍事行動を開始しました。
豆知識:家康への貢献と、その裏の野心
官兵衛は、中津城に蓄えていた巨額の資金を使い、わずか数ヶ月で大名にも匹敵する勢力を組織。
九州の西軍勢力を次々と打ち破り、徳川家康が「後顧の憂い」(後ろから敵に攻められる心配)なく本戦に集中できるよう貢献しました。
この行動には、「関ヶ原で東軍・西軍が疲弊した隙を突いて、自らが天下を獲る」という、官兵衛の人生最後の野心があったとされています。
豆知識:日本の合戦の意外な真実と「関ヶ原」の犠牲者数

ドラマや映画の影響で、戦国時代の合戦は「何万人もの武士が激しく切り合い、大量の死者が出た」というイメージがありますが、実はそうとは限りません。
1. 斬り合いは一瞬!合戦の死者数が少ない理由
日本の合戦における死者数が、ヨーロッパの戦いなどに比べて比較的少なかったとされるのには、以下の現実的な理由があります。
・鎧(よろい)の防御力
日本の武士が着る鎧は非常に優秀で、刀で鎧の上から斬りつけても致命傷を与えることは困難でした。実際、戦場での死傷原因の多くは「鉄砲」や「槍」によるものでした。
・刀の耐久力と疲労
現代のイメージと異なり、当時の刀はボロボロになりやすく、何人もの人間を斬り続けることはできませんでした。また、鎧を着て数分間、激しく刀を振り回すと、体力の消耗が激しく、戦闘を持続できません。
・決着のつけ方
そのため、合戦の主な目的は「敵を討ち取ること」よりも「敵を退却させること」にありました。敵の退却後に、追撃や首取り(討ち取った証拠の確保)を行うことが死者数を増やす主な要因でした。
2. 戦国時代で最も死者数が多かった関ヶ原の戦い
そんな日本の戦国時代において、最も死者が多かった戦いの一つが、関ヶ原の戦い(1600年)です。
関ヶ原では、両軍合わせて約15万〜20万とも言われる大軍が動員されましたが、この戦いでの犠牲者数は、推定で8,000人から1万人以上とされています。
武田信玄と上杉謙信の川中島の戦いによる犠牲者は関ヶ原の戦いよりも少なかったといわれています。死傷率(兵士が死ぬ確率)で言えば川中島の戦いの方が高かったと言われていますが、動員数が桁違いだった関ヶ原では、追撃戦も含めると多くの犠牲が出ました
・短時間での決着
関ヶ原の戦いは、正午頃に小早川秀秋が裏切って東軍についたことで、わずか半日で決着がつきました。
・死者が多かった理由
犠牲者の多くは、正面からの戦闘によるものではなく、西軍が総崩れとなった後の東軍による追撃戦と、首取り合戦によって発生しました。特に、西軍の武将が戦場から逃げ帰る途中で、地元民や東軍の追っ手に討ち取られたケースが多数を占めました。
「刀で斬り合う」というよりも、「裏切り」と「総崩れ後の追撃」によって大量の犠牲が出たのが、関ヶ原の戦いの実態でした。
りんごのイラスト/タワシ