仕事帰りの夜、いつもの電車で
私は20代の会社員です。その日は月末の締め作業で遅くなり、帰りの電車に乗ったのは夜10時過ぎでした。
最初はドアの横に立ってスマホを眺めていましたが、途中の駅で少し先の端の席が空いたので、そちらに移りました。向かいのドアのあたりに誰かが立った気配はありましたが、紺色の上着が視界の端に入ったくらいで、気にも留めませんでした。
早く帰って寝たい。頭の中はそれだけでした。
「こっち来なさい!」いきなり手首をつかまれて

最寄り駅で降り、エスカレーターを上がって改札へ向かおうとした、そのときです。
「ちょっと、あなた!こっち来なさい!」
後ろから手首をつかまれました。振り向くと、50代くらいの女性が険しい顔で私を見ています。
(え……私、何かした?)
女性は返事も待たずに、私の手首を引いて早足で歩き出しました。かなり強い力です。
(降りるときにぶつかった?何か落とした?)
心当たりはありません。それでも女性の剣幕に何も言えず、引っぱられるままついていくと、連れて行かれたのは改札横の駅員さんのいる窓口でした。
(え、駅員さんに突き出されるの……?)
女性が告げた、背筋が凍る理由
血の気が引いた私の耳元で、女性は声をひそめて言いました。
「驚かせてごめんなさいね。電車の中で、ずっとあなたのことを見ていた男の人がいたのよ。あなたが席を移ったら、あの人もすぐ向かいに移ってきたの。降りてからも、あなたのすぐ後ろにぴったりついてきてたから、気になってね」
一瞬、何を言われたのかわかりませんでした。
「その場で知らせたら、あの人にも聞こえると思って……。急に引っぱってごめんなさいね」
おそるおそる振り返ると、少し離れた柱の陰に、紺色の上着を着た男性が立っていました。
(紺色の上着……。さっき、向かいのドアのところにいたのも……?)
目が合うと、男性はすっと視線をそらし、そのまま改札を出ていきました。電車の中でも、エスカレーターでも、私はまったく気づいていなかったのです。
名前も聞けなかった、あの夜の女性
震える手で実家の父に電話をかけると、車で迎えに来てくれることになりました。事情を聞いた駅員さんが窓口の横の椅子をすすめてくれ、女性も「お父さんが来るまで一緒にいるわ」と隣に座ってくれました。
「娘がちょうどあなたくらいの年でね。見ちゃったら、放っておけなかったのよ」
10分ほどして父から「駅前に着いた」と連絡が入ると、女性は改札を出て、ロータリーに停まっている父の車まで一緒に歩いてくれました。事情を聞いた父は、女性に何度も頭を下げていました。
「本当にありがとうございました」
私も頭を下げると、女性は「気をつけてね」と小さく手を振って帰っていきました。気が動転していた私はお礼を言うのが精いっぱいで、名前を聞くこともできませんでした。
最初は怒られると思った、あの手首をつかむ強い力を、今でもよく覚えています。
※AI生成画像を使用しています。
※本記事は、実際の体験談をもとに作成しています。取材対象者の個人が特定されないよう固有名詞などに変更を加えながら構成しています。