「土佐の出来人」長宗我部元親の幼名は?
四国統一を目指し、一代で土佐(現在の高知県)から四国全土を支配下に収めた名将、長宗我部元親。彼は若い頃、その内気な性格から「姫若子(ひめわかこ)」と呼ばれたこともありました。
この「土佐の出来人(できにん)」の幼少期の名前は、その後の彼の勇猛な活躍とは対照的な、どのような名前だったのでしょうか?
この記事では、長宗我部元親の幼少期の名前をクイズ形式でご紹介します。あなたの歴史知識に挑戦してみましょう!
次のうちから選んでみてください。

① 弥太郎
② 弥三郎
③ 万次郎
正解は……



②の弥三郎(やさぶろう)でした!
長宗我部元親は、幼い頃「弥三郎」という名前で呼ばれていました。
元親は、少年時代は色白で容姿が整っていたものの、口数が少なく、戦や武芸に興味を示さなかったため、家臣たちから「姫若子(ひめわかこ)」と揶揄されることもありました。
しかし、初陣である長浜の戦いでその内気な性格が一変し、武将としての才能を開花させます。この「姫若子」から「土佐の出来人」へと変わったギャップが、彼の人気を支える要因の一つです。
① 弥太郎(やたろう): 岩崎弥太郎(三菱財閥の創業者)の幼少期の名前です。
NHK大河ドラマ福山雅治さん主演「龍馬伝」では、岩崎弥太郎役を香川照之さんが演じて認知度が爆上がりしました。
後の歴史に名を残す偉人たちは、みな古風な幼名を持っていたことが分かりますね。
豆知識:「四国統一」は達成できた?できなかった?

長宗我部元親は「四国統一を達成した」というイメージがありますが、厳密には「四国をほぼ支配下に収めたが、豊臣秀吉の介入により、完全統一はできなかった」というのが正確です。
豆知識:長宗我部家の「豊臣への忠誠」が招いた末路
長宗我部元親とその後継者たちは、豊臣秀吉の天下統一の過程で、豊臣政権下に入らざるを得ませんでした。
1. 豊臣への従属(元親の時代)
長宗我部元親は、1585年の秀吉による「四国攻め」で降伏し、四国統一の夢を断念しました。この時、元親は土佐一国のみを安堵(領有を許される)され、豊臣大名として組み込まれました。この時点から、長宗我部家は豊臣政権の家臣団の一員となります。
2. 関ヶ原の戦いと滅亡(盛親の時代)
元親の死後、家督を継いだ長宗我部盛親(もりちか)の時代、天下は徳川家康と豊臣秀吉の遺児である豊臣秀頼の二大勢力に分かれます。
豊臣への忠誠: 盛親は、関ヶ原の戦い(1600年)で西軍(豊臣方)に加わりました。これは、秀吉への恩義や、家康に対する警戒心があったためと言われます。
改易(かいえき): 戦いは東軍(徳川方)の勝利に終わり、盛親は所領を失い、改易(大名家の取り潰し)となってしまいました。
3. 最後の抵抗
その後、盛親は再起をかけ、大坂の陣(1614年〜1615年)で豊臣方として徳川家康と戦いますが、敗れて処刑されました。
したがって、長宗我部家は、時代が豊臣から徳川へ移る過渡期に「豊臣派」としての忠誠を貫いた結果、大名家として滅亡の道を辿ったのです。