やさしかった義母が豹変!?さらに夫も…
ところが、いざ一緒に住み始めると、義母の態度は一変。
「妊婦だからって甘えてない?」
「体動かさないと、お産が重くなるよ」
そう言って、家事のほとんどを私に押しつけてきたのです。
体は重く、腰も痛い。それでも休むことを許されず、私はどんどん追い詰められていきました。
夫に相談しても、「母さんも悪気はないよ」と取り合ってくれず、私は孤立していきました。
そんなある日、夫が仕事でトラブルがあったのか、不機嫌な態度で帰宅。
心配して声をかけると、
「だいたいお前が母さんとうまくやらないから、こうなったんだよ!」
と八つ当たりしてきたのです。
義母はその様子を見てクスッと笑い、「まったく手のかかる嫁ねぇ」と嫌みを言う始末。
この日を境に、夫の私への態度も明らかに変わっていきました。
以前は表向きだけでも私の味方でいてくれたのに、徐々に義母の言いなりのようになり、私に対しても冷たく、攻撃的な言葉を向けるようになっていったのです。
弁護士の友人に、初めて助けを求めた
このとき思い出したのが、大学時代からの友人・A子のこと。
A子は弁護士として働いていて、以前から「何かあったらすぐに連絡して」と声をかけてくれていました。私は思い切って連絡を取り、これまでの出来事を話しました。
A子は私の話を真剣に聞いたうえで、「今すぐ決断しなくてもいい。でも、何かあったときのために記録を残しておいて」とアドバイスしてくれました。
私は言われた通り、義母や夫の言動をメモに残し、スマホで会話を録音するようにしました。
離婚の決定打になった出来事
ある日の夕食準備中のこと。いつものように食卓に料理を並べていると、義母が言いました。
「相変わらず、犬のエサみたいなごはんねぇ」
さらに夫も「手抜きしやがって!」と怒鳴り、私の作った料理を床に叩きつけたのです。
私は黙って、床に散らばった料理を片づけながら言いました。
「すみません……。もう、料理作るのやめますね」
その瞬間、心の中で何かが決定的に切れました。
“この家では、もう生きていけない”
“子どもをこの環境に巻き込むわけにはいかない”
その夜、私はひとりになったタイミングで、A子に再び連絡を取りました。
「やっぱり、もう限界。離婚したい」
私の決意に、A子はすぐに動いてくれました。
「わかった。できる準備、全部こっちで進めるから」
これまでに私が録音していた音声やメモも、すべてA子に共有しました。
数日後、玄関に現れたのは…
数日後の夕方、A子がわが家を訪ねてきました。
「今、大丈夫?」
そう言って入ってきたA子は、私の顔を見るなり真剣な表情で言いました。
「覚悟、できてるよね?」
私は黙ってうなずきました。
鞄から封筒を取り出し、静かにテーブルの上に置いたA子。中には、私が記入済みの離婚届と、録音データのコピーなどが入っていました。
突然の展開に、夫と義母は目を丸くしました。
「ちょっと待てよ……なんだよそれ」
「冗談でしょ? 離婚なんて…!」
2人の声がだんだん焦りに変わっていきます。
「これまでのやりとりはすべて記録しています。法的な手続きは、友人であり弁護士の私が引き受けます」
A子が淡々とそう告げると、義母の顔色はみるみる青ざめ、夫は「ふざけるなよ!」と声を荒らげました。
私は心の準備ができていたので、落ち着いて言い返しました。
「ふざけた態度ばかりとっていたのは、あなたたちでしょ。どんな言葉を並べても、もう戻るつもりはありません」
義母は震える声で「ただの冗談じゃない」と繰り返し、夫も「子どもも生まれるんだし、やり直そう」とすがってきました。
けれども私は、はっきりと言いました。
「その言葉、今さら何の意味があるんですか?」
夫から身勝手な連絡。私の対応は…
A子の協力のもと、私はこれまで集めてきた証拠をもとに離婚手続きを進め、慰謝料と養育費も請求。無事に離婚が成立しました。
離婚後しばらくして、夫から一通のメールが届きました。
《リストラされて、今はバイトで食いつないでる。慰謝料と養育費の支払いが正直きつい》
そんな連絡をされても、私には関係ありません。自分でまいた種は、自分で刈り取るしかないのです。
義母についても、「パートを始めたけど長続きせず、今は何もしていない。俺とは別々に暮らしてる」とだけ書かれていました。
私は淡々と、「今後の連絡は弁護士を通してください」とだけ返信し、それきり連絡を絶ちました。これで、もう感情が揺さぶられることはありません。
その後、実家に戻っていた私は無事に女の子を出産しました。両親やA子に支えられながら、心穏やかな毎日を過ごしています。これからは娘と2人、楽しい人生を歩んでいこうと思います。
※本記事は、実際の体験談をもとに作成しています。取材対象者の個人が特定されないよう固有名詞などに変更を加えながら構成しています。