義祖父の死で生活が一変
夫は小さな会社に勤めていて収入は少なく、生活費は会社を経営する夫の義祖父が助けてくれていました。私たちが住む家も、義祖父の好意で無料で借りていたもの。さらに、娘の学費まで義祖父が援助してくれていたのです。
ところが、義祖父が急逝したことで、すべてが変わってしまいました。ある日、夫が「俺、仕事辞めたから! お前が働いて家賃と学費を稼いでこい!」と言うのです。私は突然のことに驚き「ちょっと待って、どうしてそんな勝手なことを……」と呟きました。すると夫は「俺も祖父の遺産が入ったから会社辞める。でも、義祖父が援助してくれていた分はお前が働いて補填しろ!」と笑うのです。
私は「そんな……。義祖父には感謝してるけど、あなたに恩返しするなんておかしいでしょ!」と言い放ちました。しかし、夫は家でゴロゴロするだけで家事は一切手伝わず、 娘も反抗的な態度をとるようになっていきました。
夫と娘が本性を曝け出した瞬間
その後、私は家賃と学費を稼ぐため必死に働きました。一方で夫と娘は、義祖父が残してくれたお金で散財し放題!しかし、残金が減った途端、夫と娘の態度が急変しました。
ある夜、私は布団に入りながら考えごとをしていました。 微かにドアが開く音がして、そっと目を開けると、 夫と娘が私のバッグから財布を取り出そうとしていたのです。私は「ちょっと!何してるの!」と声をあげました。夫は「げっ! 起きてたのかよ」と呆れたように言い、 娘は「チッ……最悪」と舌打ちをするのです。2人の態度にショックを受けた私は「人の財布盗るなんて最低よ!」と言うと、 夫は「うるせぇな!今までいい思いできたのは誰のおかげだ!」と開き直ったのです。
私はその場で離婚を決意しかけましたが、思いとどまりました。「娘が二十歳になるまでは…」 そう決めていたからです。
ATM呼ばわりにブチ切れた私の逆転劇!
そんなとき、父から「海外支社の立ち上げを任せたい」と声をかけられました。翻訳の仕事をしていた経験や、家業を支えてきた働きぶりが評価されたのです。もちろん私はその話を引き受け、そのまま3カ月間の海外出張に出発しました。
出張を終え、帰国した日。玄関を開けると、リビングから聞こえてきたのは、2人の会話でした。夫は「ATMの帰宅かよ」と笑い、 娘は「お金だけちょうだい!帰ってこなくていいのに!」とはしゃいでいました。帰宅して早々「おかえり」ではなく罵倒を浴びせられ腹が立った私は、無言で玄関を閉めそのままキャリーバッグを持って家を出ました。数日後、離婚届を持って家に戻った私は、 リビングでゴロゴロしている2人に向かって「離婚しましょう」と告げました。夫は「別にいいけど?お前なんていらねぇし」と鼻で笑い、 娘は「泣きつくと思ってんの?」と吐き捨てました。夫は迷うことなく離婚届にサインをし、離婚が成立しました。
ある日、元夫から電話があり、「お願いだから戻ってきてくれ! お金が底をつきたんだ!」と泣きつかれました。私は「無理。私、海外支社の支社長やってるから」とだけ伝えました。すると、電話口の娘が「ママ、ごめん。そっちに行ってもいい?」と泣きました。私は「あなたとは暮らさない」と言い、「あなたに伝えてなかったことがあるの。あなたは私の実子ではないの」と伝えました。今まで散々夫と好き放題していた娘には少し苦労をさせるために、あえて突き放しました。娘は「そんな……知らなかった……」と泣き崩れましたが、 私は「あなたが二十歳になったら話すつもりだった」とだけ返しました。
その後、元夫と娘は反省したようで、仕事を見つけ細々と暮らしていると便りがありました。私は海外で働きながら充実した毎日を送っています!
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「家族だから」と我慢を重ねた先にあったのは、感謝ではなく、軽視と依存。支える側が限界を超えたとき、その関係は簡単に崩れてしまいます。自分を犠牲にし続けるのではなく、自分の人生を守るという選択も、立派な“愛のかたち”なのかもしれませんね。
※本記事は、実際の体験談をもとに作成しています。取材対象者の個人が特定されないよう固有名詞などに変更を加えながら構成しています。