大切な存在だったいとこ
1人っ子の私にとって、いとこのA子はいわば妹のような存在でした。明るく自由な性格で、よくピアノを弾きながら「音楽で人の心を元気にしたい」と語っていた姿は今でも鮮明に覚えています。
しかし音大を卒業した後、結婚や出産を経てA子は音楽の夢を断念。やがてシングルマザーとして娘のB美を育てることになりました。母親(私の叔母)が亡くなってからは、仕事を掛け持ちして必死に娘を育てていましたが、次第に親族とも疎遠になっていきました。
その後、A子は体調を崩し、しばらくの入院を経て帰らぬ人となってしまったのです。
忘れ形見との再会
葬儀の場で久しぶりに会ったB美は、当時15歳。少し派手な印象の外見で、親族の中には心配の声を上げる人もいました。ですが私は、彼女が抱えている大きな喪失感を思うと、ただ外見だけで判断されてしまうのは違うのではないかと感じました。
かつて私の心を支えてくれたA子への恩返しの気持ちもあり、私は思い切って声をかけました。
「もしよければ、私の家に来ない? A子は私にとって妹のような存在だったんだ」と。
驚いた表情を浮かべたB美でしたが、最終的にはうなずいてくれました。こうして私の家に迎えることになったのです。
音楽がつないでくれたもの
最初のうちは、B美は心を閉ざしがちで会話も続きませんでした。しかし、私の両親も協力してくれ、音楽の話をきっかけに少しずつ笑顔が見えるようになりました。やがてB美自身もピアノを弾けることを打ち明けてくれ、母親から受け継いだ音色を聴かせてくれたのです。
「実は隠れて弾いていたんだ」と言って見せてくれた演奏は、まるでA子を思い出させるようでした。
B美は次第に前向きになり、学校生活や将来のことを話してくれるようになりました。私自身も「何か一緒に挑戦したい」と思い、楽器を練習し始めました。そして1年後、私たちは小さな演奏会に参加するまでになり、B美は「ありがとう」と笑顔で言ってくれました。
かつて「問題児」と心配されていた少女は、ただ大切な人を失い、居場所を探していただけでした。音楽を通じて心を開き、新しい家族のようなつながりを築けたことを、今でも本当によかったと思っています。
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周囲から誤解されていたB美でしたが、実際には傷つきながら必死に耐えていただけだったのですね。音楽を通じて少しずつ笑顔を取り戻し、新たな家族と良い関係を築けたことが何よりの喜びではないでしょうか。
※本記事は、実際の体験談をもとに作成しています。取材対象者の個人が特定されないよう固有名詞などに変更を加えながら構成しています。
※AI生成画像を使用しています
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